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第22話 花のない庭

 翌朝。


 裏庭の花壇が全滅していた。昨日の逆さまの雨で、すべての花が枯れた。紫陽花の蕾も、鈴蘭も、躑躅の残り花も。灰色の茎が、土から突き出している。まるで骨のように。匂いがないから——この庭に匂いがあるのかないのかすら分からない。


 チヨは枯れた花壇の前にしゃがんだ。母が世話をし、チヨが引き継いだ花壇。季節ごとに違う花を咲かせてきた場所。ルカと一緒に球根を植えた場所。春には鈴蘭、夏には紫陽花、秋には彼岸花、冬には椿。


 土に手を触れた。冷たい。生きている土の温度ではない。指の間から砂がこぼれる感触はある。だが、湿り気がない。昨夜の雨——逆さまの雨——で、水分が全部空に昇ってしまったのだ。


 ルカがノートを持って来た。


『姉ちゃん。鈴蘭の球根、まだ生きてるかもしれない。根っこが残ってれば、来年また咲く。新しいの買ってきて植えようか』


 来年。チヨはその文字を見つめた。来年、自分はいない。でもルカの鈴蘭は咲くだろう。この枯れた土から、白い花が立ち上がるだろう。


 鈴蘭の花言葉は「再び幸せが訪れる」。母がそう教えてくれた。球根は地下で冬を越し、春になると芽を出す。地上の花が枯れても、地下の命は死なない。——チヨと同じだ。地上から消えても、地下に——写し世に——命は残る。


『ありがとう。植えて。来年、きっと咲くよ』


 健司が来た。いつものように、朝の顔を見に。手に紙袋を持っている。中身は——チヨには見えないが。


 ノートに書いた。


『花壇の土が冷たい。昨日の雨で、村の東側はもう完全に色を失ったと思う。今日、確認に行く』


 二人で村の東側を歩いた。チヨにはモノクロにしか見えないが、健司が隣で状況をノートに書いてくれた。


『家の壁が完全に灰色。花壇も。木の葉も。色だけじゃない——匂いもないと思う。梅の木のそばを通ったが、何も匂わない。空気が——乾いている。生きている村の空気じゃない』


 学校の前を通った。校庭に人の気配がない。避難した家の子供たちは、もう登校していない。校舎の窓が閉まっている。黒板に「ともだちにやさしくする」の字が、まだ残っているだろうか。


 帰り道。健司がチヨの手を取った。不意に。


 チヨの手は冷たい。いつも冷たいが、今日は——もっと冷たい。感覚が一つ消えるたびに、体温が少しずつ下がっているような気がする。


 健司の手は温かかった。大きくて、荒れていて、でも温かい。


 健司がノートに書いた。


『今日の風は、梅雨の前の匂いがする。甘くて、少し湿っている。草の匂いも混じっている。チヨの代わりに、匂いを伝える。毎日。何年でも』


 チヨはその文字を見つめた。目が熱くなった。涙は出る。涙の温かさは分かる。でも——涙の味は、もう分からなかった。


 ノートに書いた。


『ありがとう。あなたが私の鼻になってくれるなら、世界はまだ香っている』


        *


 その夜。チヨは暗室に入った。


 影写りの粉を精製しなければならない。あの子が夢写師として立つ日のために。最後の一袋を——残しておかなければ。


 桜の花びらの粉末を取り出した。蔵の奥に保管してある瓶。母が集め、チヨが受け継いだもの。——桜の匂いは、もう分からない。瓶を開けても、何も感じない。


 影コロジオンの原液と、桜の粉末と、狐火の灰。三つを混ぜる。比率は体が覚えている。目が見えないから、指先の感触だけで量を計る。匂いも味もないから、正しく混ざっているかの確認ができない。


 それでも——手が動く。色彩を失った目で桜の粒子を見極め、声を失った喉で祈りを込め、感覚が消えゆく指先で粉を練り上げる。チヨの全感覚が失われた後も、この手だけは——写祓の手順だけは、最後まで正確に動く。


 練り上がった影写りの粉を、小さな袋に入れた。紐で口を結ぶ。結び目は——帯の結び方と同じだ。左手で支えて、右手でたすきを。


 この一袋が、あの子の手に渡る日が来る。あの子がこの粉を使って初めての写祓を行うとき——チヨの命が削り取られた分だけ、あの子の写真に力が宿る。


 袋を棚の奥に置いた。母のノートの隣に。ノートには調合の手順が書いてある。チヨが読めなくなった文字が、いつかあの子の目に映る。

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