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夢写師チヨと白い狐 ―祈りを紡ぐ、写し世の欠片―(改訂版)  作者: 大西さん
エピローグ「写し世より愛を込めて」
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第41話 味噌汁が二つ

 翌朝。


 ルカが起きた。


 一人だった。


 写真館は静かだった。静かすぎた。廊下に朝日が差している。古い木の床が、足裏に冷たい。いつもの冷たさ。いつもの朝日。——でも、何かが足りない。何が足りないのか、分からない。


 階段を降りる。三段目が軋んだ。——この音を聞くと、なぜか安心する。理由は分からないが。足を止めて、三段目に座った。冷たい木の感触。ここに座ると——落ち着く。誰かと一緒に座っていたような気がする。隣に。小さな温かいものが——。


 チクワが来た。猫が、ルカの隣に座った。三段目に。まるで——空いている場所を埋めるように。猫の体が温かい。


「……おはよう、チクワ」


 猫は短く鳴いた。それから、階段の上を見上げた。誰かを待っているような目で。


 台所に立った。


 体が勝手に動いた。鍋を出す。水を張る。昆布を入れる。——なぜ昆布から出汁を取るのか、覚えていない。でも、体が知っている。十五分待つ。昆布を引き上げる。鰹節を入れる。


 豆腐を切る。さいの目に。包丁の持ち方が——誰かに教わった持ち方だ。親指をここに、人差し指をここに。この角度で。——誰だったか。


 ネギを刻む。小口切り。トントントン。このリズム。毎朝聞いていたリズム。——自分が刻んでいるのに、誰か別の人が刻んでいるような錯覚。


 味噌を溶く。赤味噌。少し甘めに。——なぜ甘めにするのか、分からない。自分は辛い方が好きなのに。でも、手が勝手に甘めに溶く。誰かの好みに合わせている。誰の好みか——。


 椀に注ぐ。


 二つ。


 二つの椀に、味噌汁を注いだ。


 箸を二膳。茶碗を二つ。


 テーブルに並べた。一つは自分の席。もう一つは——向かいの席。


「……なんで二つ?」


 声に出して聞いた。台所に自分の声が響いた。答える人はいない。


 理由が分からない。体が勝手に二人分を作った。手が覚えている。昆布の量も、味噌の濃さも、椀の数も——全部、二人分。


 向かいの席に、誰が座るのか。ルカには分からない。


 でも椀を片づけることが——どうしてもできなかった。片づけようとすると、胸が痛む。椀を持ち上げて流しに運ぼうとすると、手が止まる。体が拒否している。この椀は——ここにあるべきだと。


 ルカは自分の味噌汁を飲んだ。甘い。いつも通りの——いつも通り? 誰が「いつも通り」を決めたのだろう。この甘さは、自分の好みではない。もっと辛い方が好きだ。なのに、甘く作ってしまう。


 チクワが足元にやってきた。猫は向かいの椀を見て、短く鳴いた。それから、階段の三段目に行って座った。毎朝同じ場所に座る。——誰かと一緒に、座っていたような気がする。


 ルカは食器を洗った。自分の椀を洗った。向かいの椀を持ち上げた。流しに傾けた。


 味噌汁が——ゆっくりと、排水口に吸い込まれていく。ザァッ。流れる音が台所に響いた。温かい湯気が最後に一度だけ立ちのぼり、消えた。豆腐の白い塊が流れていく。ネギが一切れ、排水口の縁で引っかかり、消えた。


 椀が、軽くなった。


 さっきまで味噌汁の重さがあった椀が——空になった瞬間、恐ろしいほど軽い。ルカは思わず椀を強く握りしめた。この軽さが怖い。中身がないことが怖い。


 胸が痛んだ。「もったいない」ではない。もっと深い場所が痛んだ。大切な誓いを破っているような恐怖。この一杯には意味がある。それを捨てるのは——誰かを裏切る行為のような。


 排水口から——ゴボッ。


 空気が漏れる音。味噌汁が全部流れた後に、配管の奥から返ってくる、無機質な音。まるで——胸の穴から空気が漏れるような音だった。


 ——ごめんなさい。


 誰に謝っているのか分からなかった。


 空の椀を見つめた。長い時間。湯気が消え、磁器が冷たくなっていくのを、ただ見ていた。


 背後で——ギイ。


 チクワが階段の三段目を降りてきた。軋み。あの音。捨ててしまった喪失感の中に、三段目の軋みが差し込んだ。——この音がある限り、大丈夫。理由は分からないが、そう思えた。


 明日も二つ作る。一つ捨てる。謝る。——でも三段目が鳴る限り、やめない。


 唐辛子を鍋に入れた。煮込み始めた。——なぜ辛いものが好きなのか分からない。子供の頃は嫌いだったはずだ。いつから好きになったのだろう。でも、唐辛子を煮ると、頭が静かになる。胸の中の穴が、辛さで埋まるような気がする。


 店先に出た。箒を持って、掃除を始めた。——なぜか、毎朝掃除をしたくなる。床板の継ぎ目に溜まった砂を掃く。この手順も、体が覚えている。


 掃除の途中で、髪が目にかかった。左手で耳の後ろにかけた。——この仕草。いつからか、癖になっていた。右手ではなく左手で。耳の上を通して、後ろに。子供の頃はこんな仕草をしなかったはずだ。誰かの——誰かの真似をしているような気がする。


 空を見上げた。五月の青空。白い雲。霧は——白い霧。穏やかな日の前触れ。


 何かを——忘れている。


 何を忘れたのか、それすらも分からない。でも、胸の中に——ぽっかりと、穴が開いている。空っぽではないし、満杯でもない。何かが入っていた形だけが残っている。椀の形。手の形。声の形。


 隣の部屋——廊下の奥にある、もう一つの部屋。ドアが閉まっている。開けようとして——意識がそれた。何か別のことを考え始めた。あの部屋のことを、考えられない。


 暗室に入ってみた。木戸を閉める。こつんと引っかかる。——この引っかかりを、知っている。安全灯をつけた。赤い光。棚にトングが三本並んでいる。一番左のトングを手に取った。持ち手が——誰かの指の形に凹んでいる。自分の指とは違う。もう少し細い指の跡。


 その隣に——四本目があった。


 新しい。ピカピカの真鍮。誰の指の跡もついていない。冷たい。棚の奥に、紙に包まれた状態で置かれていた。紙には何も書かれていない。でも——誰かが、ルカのために用意したのだ。いつかこの暗室に立つルカのために。


 ルカは四本目のトングを握った。冷たい真鍮が、手のひらの温度でゆっくり温まっていく。この持ち手に、自分の指の跡が刻まれる。四代目の跡が。


 棚の奥に、小さな袋があった。口が紐で結んであり、結び方が——帯の結び方と同じだった。左手で支えて、右手でたすきを。この結び方を、ルカは知っている。誰に教わったか覚えていないが、指が知っている。


 袋の中身は——粉だった。桜色の粉。匂いを嗅いだ。甘い。桜の匂い。——なぜか、泣きそうになった。


 袋を棚に戻した。隣に古いノートがある。「調合手順」。几帳面な字。知らない字だが——。


 ノートを開けなかった。開けようとしたが、手が震えた。このノートを読んだら——何かが始まってしまう気がした。まだ——今は——。


 ルカは暗室を出た。木戸を閉めた。こつんと引っかかった。


「……これ、直さなきゃ」


 呟いた。なぜそう思ったのか分からない。この引っかかりは昔からだ。直そうと思いながら——誰かが、ずっと放置していた。その「誰か」の代わりに、自分が直さなければならない気がした。


 玄関の土間を通った。靴箱の上に花瓶がある。梅の枝が枯れたまま挿してある。花瓶の表面に、金色の筋が走っている。金継ぎ。割れた磁器を繋ぎ合わせた跡。


 ルカは足を止めた。指で金色の筋をなぞった。誰が直したのか分からない。壊れた場所を、丁寧に、金で繋ぎ合わせた意志だけが指先に伝わった。涙が出た。理由は分からなかった。


 でも——なぜか、この花瓶を自分が直せる気がした。金継ぎの道具は、棚のどこかにあるはずだ。金の粉と漆と筆。手順は知らない。知らないはずだ。でも——筆を持てば、失敗する気がしない。この線の引き方だけは、体が知っている。


 破片の一つを手に取った。小さな陶器の欠片。縁に、微かな摩耗がある。誰かが何度も指で触れた跡。ルカはその凹みに自分の親指を当てた。


 ——馴染む。


 驚くほど、指に馴染んだ。この凹みの角度が、自分の指の形と完璧に一致している。誰の指の跡かは分からない。でも——身体が、その場所を覚えていた。


 チクワが玄関に来て、ルカを見上げた。金色の目。この猫だけが、何かを知っているような目をしている。


 ルカは自分の手をこすった。——手が冷たい。


 先週、診療所に行った。風邪ではない。胸が痛いから。健司が聴診器を当てて「異常なし」と言った。お茶を出してくれた。湯呑みを受け取るとき、健司の指に触れた。


「先生の手、氷みたいに冷たいですね」


 何気なく言った。健司の手が止まった。湯呑みを持ったまま、しばらく動かなかった。


「……昔からだ」


 健司は目を逸らした。診療所に戻った後、机の前に座った。右手が——冷たい右手が、無意識に引き出しに伸びた。何かが入っている。ずっと入っている。開けたことはない。開けてはいけない気がする。指先が取っ手に触れた——冷たい金属の感触。指の冷たさと取っ手の冷たさが、同じ温度だった。金属の表面が、健司の指先に触れた場所だけ、一瞬曇った。白く。吐息のような霜。愛の重さが、物質を凍らせる。


 手を引いた。今日も開けなかった。


 嘘だ。ルカにはなぜか分かった。昔からではない。何かがあったのだ。何かを掴もうとして、この冷たさを手に入れた。——誰の手を温めようとしたのだろう。いつからか、手が冷たくなった。子供の頃はそんなことなかったのに。冷たい手を温めるために、右手で左手を包む。この仕草を——なぜかよくする。


「……行ってくるね」


 ルカは門を出て、石畳の道を歩いた。角を曲がる前に——振り返った。


 写真館に向かって、手を振った。


 なぜ手を振ったのか、分からない。誰かが見ているような気がして。誰かが——毎朝ここに立って、ルカが曲がるのを見届けてくれていたような気がして。


 写真館の窓には、誰もいなかった。


 ——でも、手を振らずには、いられなかった。

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