第40話 静江の後始末
翌朝。
静江は夜通し歩いた。
七十四歳の老婆が、杖をつきながら、避難先の親戚の家を一軒ずつ回った。
静江は影向稲荷の巫女だった。封印に立ち会った唯一の人間の証人。巫女としての血が、秘匿の霧の影響を部分的に免れさせた。チヨの顔は——もう思い出せない。声も分からない。でも、「橋爪家の長女が封印を行った」という事実だけは覚えている。名前は——もう出てこない。でも、やるべきことは覚えている。
最初の家。久遠木の外れに住む、夕霧村から避難した家族。
「すみません。夕霧村のことで——」
「夕霧村?」
女性が首を傾げた。
「ああ……あったような気もするけど。うちの親戚がいたんだっけ?」
霧が記憶を消している。村の名前が消え、村人の名前が消え——やがて「そんな場所はなかった」ことになる。
静江は黙って頷き、次の家に向かった。
二軒目。三軒目。四軒目。どの家でも同じ反応だった。「夕霧村? 知らないなあ」。昨日まで住んでいた場所を、もう忘れている。
五軒目で——奇妙なことがあった。
梶原さんの家。嫁いだ娘の母親。チヨが「実家の空気」を撮った依頼者。梶原さんは村のことをほとんど忘れていた。でも——居間の棚に、一枚の写真が飾ってあった。娘の美緒が東京から送ってきた手紙に同封された写真。「実家の空気」の写真のコピー。
「この写真、どなたが撮ったの」静江が聞いた。
「さあ……誰だったかしら。でもね——この写真を見ると、なぜか安心するの。味噌汁の匂いがするような気がして」
チヨの写真が——霧を越えて、残っていた。名前は消えた。顔も消えた。でも——写真に定着した祈りだけは、秘匿の霧でも消せなかった。
静江は黙って頷いた。なぜか涙が出た。理由は分からなかったが。
行政にも手を回した。役場に行き、夕霧村の戸籍を確認した。
「合併により久遠木町に統合、ですね。こちらの書類にサインを」
職員は何の疑問も持たなかった。村が一つ消えることに、誰も違和感を覚えない。霧がそうさせている。
地図から夕霧村の名前を消す手続きを済ませた。古い地図には「夕霧」の文字が残っているが、新しい地図には載らない。
最後に、写真館に行った。
深夜。ルカが二階で眠っている。階段の三段目から、かすかな軋みが聞こえた。猫が座っている。金色の目の猫。——この猫は、何かを知っている。静江にはそう見えた。
一階の居間で、静江はしばらく座っていた。暗い居間に、月明かりが差し込んでいる。テーブルの上に、ノートが三冊置いてある。筆談用のノート。——誰が使っていたのだろう。
この写真館に——誰かがいた。名前は思い出せないが、味噌汁が上手な人だった。手が冷たくて、でも目が温かかった。金色の——。
思い出せない。霧が、静江の記憶も少しずつ食べている。でも——胸の奥に、温かいものが残っている。名前のない温かさ。顔のない優しさ。それだけが、霧でも消せずに残っている。
暗室を覗いた。棚の上に、小さな袋が置いてあった。影写りの粉。その隣に、古いノート。表紙に「調合手順」と書いてある。——これも、誰が書いたのだろう。
静江はノートを手に取り、ページをめくった。几帳面な字。美しい字。この字を書いた人を、静江は知っているはずだ。でも——名前が出てこない。
ノートを元の場所に戻した。いつか、ルカがこのノートを開く日が来る。
でもやるべきことは分かっている。
ルカの後見人になる。写真館の経営を支える。ルカが一人で立てるようになるまで。
学校に電話をかけた。「橋爪ルカの保護者が変わります」。担任の先生が「お姉さんは?」と聞いた。——お姉さん。静江の頭の中で、霧がかかった。お姉さん——いたような気がする。でも名前が出てこない。「親戚の都合で」とだけ答えた。
写真館の帳簿を開いた。几帳面な字で収支が記録されている。この字は——誰のだろう。美しい字だ。帳簿は最後の月の途中で途切れていた。五月十七日が最後の記入日。それ以降は白紙。
仕入先への手紙を書いた。「しばらく営業を縮小します」。現像液の卸元。フィルムの問屋。ガラス板の専門店。——この村にはもう客はいない。でもルカが続ける限り、写真館は存続させなければならない。
深夜の台所で、明日の朝食の下準備をした。ルカは——味噌汁が好きらしい。冷蔵庫に昆布と味噌がある。作り方は——静江には分からない。でもノートがあった。台所の棚に。「味噌汁の作り方」と書かれた紙。ルカの字だ。「昆布十五分。鰹節。豆腐さいの目。味噌甘めに」——誰かに教わった手順が、ルカの字で書き留められていた。
——誰かがやらねばならない仕事だ。
静江は杖をつき、立ち上がった。膝が痛い。腰も痛い。七十四年分の体が軋んでいる。階段の三段目が、静江の足音に合わせて軋んだ。猫がそばに来て、静江の足首に頭を擦りつけた。
それでも——まだ動ける。動ける限り、動く。
あの子が遺した最後の仕事を、最も年老いた者が引き受ける。それが——夕霧村の、最後の務めだった。




