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第39話 秘匿の霧

 白い霧が、村を包んだ。


 封印が完成してから、数時間が経っていた。紫の霧は消え去り、代わりに——白い、甘い匂いのする霧が降りてきた。秘匿の霧。封印された存在の記憶を、現世から消す霧。


 健司は写真館の前に立っていた。チヨが行ってから、ずっとここにいた。帰ってくるのを待っていた。


 霧が、健司を包んだ。


 ——あれ。


 健司は首を傾げた。何かを待っていた気がする。誰かを。誰だったか。


 写真館の看板を見上げた。「ハシヅメ写真館」。ここに——誰かがいた。誰だったか。


 手を見た。手のひらに、文字を書いた跡がある。マジックの痕。何と書いてあったか——読めない。消えかけている。「あ——」何かの文字。


 ——俺は何しに、ここに立っているんだろう。


 健司は頭を掻いた。診療所に戻らなければ。明日も往診がある。——でも、足が動かない。ここを離れてはいけない気がする。理由は分からないが。


 霧が深くなった。健司の記憶が、一枚ずつ剥がれていく。


 最初に消えたのは、チヨの声だった。どんな声だったか——高かったか、低かったか——もう分からない。


 次に、顔が消えた。目の形。鼻の線。唇の曲線。一つずつ、霧に吸い込まれていく。最後まで残ったのは——瞳の色だった。金色。でもそれも——やがて——。


「——チヨ」


 最後に一度だけ、名前を呟いた。誰の名前か、もう分からなかったが。口が勝手に動いた。二文字。舌が覚えていた形。


 霧が、その名前も飲み込んだ。


 健司は写真館の門の前に立ったまま、しばらく動けなかった。手のひらに、何か文字を書いた痕がある。「あ・い・し・て・る」——もう読めない。でも手のひらが——熱い。誰かの指がここに触れた記憶だけが、皮膚の奥に残っている。


 ポケットの中で、ポケベルが冷たくなっている。液晶画面に数字が残っていた。「08414106」。誰が送ったのか分からない。何の数字か分からない。——でも掌の文字と、液晶の数字が、同じ温度で体の中に沈んでいく。二つの「愛してる」。指で書かれたものと、ボタンで打たれたもの。どちらも——もう読めない。でも、どちらも——消えない。


 やがて——健司は診療所に帰っていった。重い足取りで。振り返りながら。何度も振り返りながら。


 診療所の机の引き出しには、フィルムの缶が入っている。健司はそのことを忘れた。でも——引き出しだけは、開けない。開けてはいけない気がする。理由は分からないが。


 七年間、開けない。


        *


 写真館の二階。


 ルカが階段を上がってきた。いつの間にか、井戸から写真館に戻っていた。誰が運んだのか分からない。気がついたら、一階の居間に寝ていた。


 頬に涙の跡がある。なぜ泣いていたのか、思い出せない。


 二階の廊下を歩く。自分の部屋の隣に——もう一つ部屋がある。ドアが閉まっている。開けようとして——。


 意識がそれた。何か別のことを考え始めた。学校の宿題のこと。明日の天気のこと。——あの部屋のことを、考えられない。考えようとすると、霧がかかったように意識がそれる。


 ルカは自分の部屋に入った。机の引き出しを開けた。——銀の懐中時計が入っていた。蓋に鈴蘭の彫刻。針は七時四十二分で止まっている。


「……これ、なんだっけ」


 分からない。でも、捨てられない。理由もなく、大切だと思う。


 窓の外で——金色の光の粒が降り始めた。


 記憶の雨。


 空から、温かい光の粒が、真っ直ぐに降ってくる。逆さまの雨の反対——空から地面に向かって。村の記憶が、空に昇った後、光に変わって降り注いでいる。チヨの祈りが、光の粒になって。


 ルカが手を伸ばした。窓から。光の粒が手のひらに触れた。温かい。懐かしい。——なぜ懐かしいのか分からない。


 光が手に触れて消える瞬間、何かが見えた気がした。白い着物。長い黒髪。優しい微笑み——。


「……誰」


 思い出せない。でも、胸がきゅっと締まる。


 チクワが窓辺にやってきた。猫は空を見上げて、長く、細く、鳴いた。誰かを呼ぶような声で。ルカには——その声が、とても悲しく聞こえた。

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