第38話 チヨの祈り
光の中で、チヨの意識はまだ残っていた。
体はない。声もない。感覚もない。ただ意識だけが、写し世の入口に浮かんでいる。現世と写し世の境界。薄い膜のような場所。
ここから、現世が見える。光の中に浮かぶ映像として。
ルカが、井戸の前で泣いている。膝をついて。両手で顔を覆って。肩が激しく震えている。金色の瞳から涙が溢れている。
——ルカ。
チヨの意識が、ルカに手を伸ばした。体のない手を。光の指を。
ルカの額に——光の指が触れた。
ここからが、最も難しい選択だった。
秘匿の霧が発生する。封印の副作用として。チヨの存在に関する記憶が、現世から消えていく。村人は「なんとなく忘れる」——霧の力で。曖昧に。ぼんやりと。
だがルカだけは——チヨが自分の手で消す。
秘匿の霧による忘却は不完全だ。「なんとなく忘れる」だけでは、ルカには効かない。金色の瞳を持つ者は、霧に対する耐性がある。放っておけば、ルカはチヨの記憶を保持する。そして——姉を追って写し世に来てしまう。境界を越えてしまう。
それだけは許せない。
——ルカ。ごめんね。
チヨの光の指が、ルカの額に沈んでいく。記憶の層に触れる。ルカの記憶は——美しかった。光の指で触れると、記憶の一つ一つが宝石のように輝いている。
——これからあなたは、私を忘れる。
忘れてほしくない。本当は。
味噌汁を二人で飲んだ朝。何百回もの朝食。豆腐とネギの味噌汁。卵焼き。漬物。「いただきます」と声を合わせた。ルカはいつも「おいしい」と言ってくれた。塩辛い日も。甘すぎる日も。
消す。
写真の練習をした午後。「光を読みなさい」と教えた。ルカが初めて一人でシャッターを切った瞬間の笑顔。「撮れた!」と叫んだ声。
消す。
目をつぶって味噌汁を作る練習をした夕方。「体が覚えていれば姉ちゃんはそばにいる」と言った。ルカが「全部教えて」と答えた。
——消さない。この言葉は消すが、手の記憶は残る。ルカの手が昆布の位置を覚えている。棚の左から三番目。これは消せない。
帯の結び方を教えた夕方。左手で支えて、右手でたすきを。何度も失敗して、最後に「やった!」と笑った。
——消さない。体の記憶だ。頭からは消せるが、指が覚えている。
布団の中の指切り。「絶対忘れないよ」と言ってくれた夜。「針千本だからね」と笑った声。
消す。——ごめんね。針千本の約束を、破ったのは私の方だ。
ルカの寝顔を撮った夜。月光の中の寝顔。チヨだけの写真。——写真は暗室にある。でもルカの記憶からは、撮られたことを消す。
消す。
セルフタイマーで撮った三人の写真。五月の陽光。ルカが真ん中で笑っている。写真は残る。でもルカの記憶からは、誰と撮ったかを消す。
消す。
「嘘つき。でも好き」と言ってくれた昨夜。——最後に消す記憶。一番新しくて、一番痛い。
消す。
階段の三段目で並んで座ったこと。チクワが間に入ってきて。
——消さない。三段目の軋みは、体が覚えている。
健司と三人で歩いた帰り道。「お似合いだね」とルカがからかった夕暮れ。
消す。
角を曲がる前に振り返って手を振ること。
——消さない。体の習慣だ。なぜ振り返るか分からなくても、体が勝手に振り返る。
チヨの顔を——消す。チヨの声を——消す。チヨの名前を——消す。「チヨ姉ちゃん」という言葉を。世界で一番呼ばれたかった名前を。
金色の瞳を——灰銀に変える。夢写師の血を、眠らせる。力が目覚めないように。写し世が見えないように。境界を越えようとしないように。——いつか、力が自然に目覚めるその日まで。
一つずつ。丁寧に。壊すのではなく、眠らせる。深い場所に。霧の底に。いつか目覚める可能性を——わずかに——残して。
——でもね、一つだけ。
体が覚えていることは、消せない。頭の記憶は消せる。でも、体の記憶は——魂に刻まれた記憶は、霧でも消せない。
帯の結び方。味噌汁の味付け。卵焼きの砂糖の量。唐辛子の煮込みの作り方。
角を曲がる前に振り返ること。三段目に座ると落ち着くこと。
——それだけは、残る。私が残せる、最後の贈り物。
——いつか。いつかあなたが、体の記憶に引きずられて——「あれ、なんでだろう」と思う日が来る。味噌汁を二つ作ってしまう日が来る。三段目に座って、なぜか安心する日が来る。
——そのとき、ほんの少しだけ、思い出の扉が開く。
——いつか思い出して。いつか。
——わたしは、もう一度——あなたのそばにいられる。
光の指が、ルカの額から離れた。
ルカの瞳から、金色が消えた。灰銀に変わった。ルカの体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。意識を失っている。
チヨの意識が、写し世に沈んでいく。現世の光が遠くなる。
最後に見たのは——ルカの寝顔だった。井戸の縁で眠っている。涙の跡が頬に残っている。穏やかな顔。何も知らない、十五歳の少女の寝顔。
あの朝と同じだ。最初の朝。ルカの寝顔を撮ろうとして、シャッター音で起こしてしまった朝。あのときのルカと——同じ顔。
——おやすみ、ルカ。
——いつか、目が覚めたら。思い出して。
*
写し世に沈みながら、チヨは上を見上げた。
現世の方角——頭上に、光が見えた。金色の粒が、無数に、空から降り注いでいる。
記憶の雨。
かつてチヨが持っていた感覚の欠片が、光の粒に変わって降っているのだ。色彩の記憶が金色の粒になり。声の記憶が銀色の粒になり。匂いの記憶が白い粒になり。味の記憶が透明な粒になり。触覚の記憶が温かい粒になり。
それが雨となって、現世に降り注いでいる。村人たちの心に。名前のない温もりとして。チヨの名前は忘れられる。顔も忘れられる。でも——温もりだけが残る。「この村にかつて、優しい人がいた」という感覚だけが。名前のない、顔のない、でも確かに温かい記憶の残像。
チヨは光の雨を見上げながら、写し世に沈んでいった。自分の感覚が光に変わり、雨になって現世に還っていくのを——美しいと思った。
最後の感覚が、最後の贈り物になった。




