最終話 永遠の一枚
白い空間が、どこまでも広がっている。
ここは写し世——現世の裏側に存在する、記憶と魂の領域。時間の流れも空間の概念も、現世とは異なる法則に支配されている。
橋爪チヨは、白い空間に浮かんでいた。
体がある。ここでは、体がある。目が見える。耳が聞こえる。自分の声が出る。匂いが分かる。手で触れることができる。——写し世では、失った感覚が戻っている。
ただし、色彩は反転している。暖色が暗く、寒色が明るい。空は暗い橙色で、大地は明るい青紫色。写し世の法則。
チヨは立ち上がった。白い着物を身に纏っている。髪は肩まで。金色の瞳が、写し世の光を反射している。
「チヨ」
声——ではなかった。気配。誰かがそこにいる気配。振り返ると——。
二つの熱源。
片方は——桜の匂いと味噌の匂いが混ざった、橋爪家の匂い。もう片方は——木の匂い。暗室の木の匂い。
母と、父。
姿がはっきり見えるわけではなかった。写し世の光の中で、輪郭だけが揺れている。逆光のシルエット。金色の瞳が——母の瞳が、チヨと同じ色に光っていた。
言葉は交わさなかった。交わす必要がなかった。
母の輪郭がチヨに近づき、そっと——包み込んだ。触れたのか触れていないのか分からない。でも温かかった。写し世では——この温もりだけが確かだ。
だが——母の温もりの中に、微かな震えがあった。怒りではない。悲しみだ。娘がやり遂げたことへの誇りと、二十二歳でこちら側に来てしまったことへの——親としての、取り返しのつかない悲しみ。「まだ早い」。言葉にはならなかったが、震えが伝わった。
父の輪郭が、チヨの頭に手を置いた——ような気がした。重さは感じない。でも、安心した。子供の頃、寝る前に父がいつもそうしてくれた。父の手も——震えていた。
チヨの目から涙が溢れた。涙の温かさが頬を伝っていく。感覚がある。すべての感覚が——写し世では、戻っている。
母の輪郭が、空間を指し示した。言葉ではなく——視線で。「見てごらん」と。
空間に現世の光景が映し出された。
写真館。朝。
ルカが台所に立っている。味噌汁を作っている。——二つ。椀を二つ並べている。向かいの席にも。
チヨの目から、また涙が溢れた。
チヨの口から言葉が漏れた——声が出る。写し世では、声が戻っている。
「覚えているんだ……体が……」
母の輪郭が——微笑んだ。微笑みだけで伝わった。記憶を消しても、体に染みついた習慣は消せない。チヨが教えた味噌汁の作り方。帯の結び方。階段の三段目が好きなこと。——全部、残っている。母はそれを知っている。同じ道を歩こうとした人だから。
チヨはルカを見つめた。味噌汁を飲むルカ。向かいの椅子を見つめるルカ。誰がいたか分からないのに、椀を片づけられないルカ。
「ごめんね、ルカ。でも——」
ルカが門を出た。石畳を歩く。角を曲がる前に——振り返った。写真館に向かって手を振った。
チヨは写し世から、手を振り返した。届かない。見えない。
でも——不思議なことが起きた。ルカが手を振った瞬間、写し世の空気がかすかに震えた。ルカの手の動きが——忘却の壁を越えて、ほんの一瞬だけ、チヨの空間に波紋を起こした。
三段目の軋みと同じだ。ルカの「体の記憶」が発する振動だけは、二つの世界の膜を透過する。
ルカは知らない。自分が手を振るたびに、写し世の姉に届いていることを。でもチヨは知っている。毎朝、ルカが振り返るたびに——波紋が来る。小さな、温かい波紋が。
「見えてるよ、ルカ。毎朝、見てる。毎朝、届いてる」
*
時間が流れた。写し世の時間は現世とは違う速度で流れる。
ルカが成長していく。十五歳が十六歳に。十七歳に。十八歳に。
写真館を一人で切り盛りしている。静江が助けてくれている。写祓はまだできない。でも、普通の写真は撮れるようになった。光を読むのが上手い。チヨが教えた通りに。「光を読みなさい。影を恐れないで」——あの言葉を、ルカの体が覚えている。
十六歳の秋。初めて一人で依頼をこなした。七五三の家族写真。子供が泣き止まなくて、ルカが百面相をして笑わせた。写真を受け取った母親が「いい写真ですね」と言った。ルカは——なぜか、泣きそうになった。誰かに報告したかった。「撮れたよ」と。——誰に?
十七歳の冬。暗室の棚の奥で、古いノートを見つけた。「調合手順」と書かれたノート。几帳面な字。知らない字だが——読むと、手が震えた。このノートに書かれた手順は、体が知っている手順だった。誰が書いたか分からないのに、手順だけは知っている。
十八歳の春。診療所の健司を訪ねた。風邪を引いたから——ではなく、胸の穴が痛むから。体のどこにも異常はないのに、胸の奥が痛い。健司は聴診器を当て、「異常なし」と言った。それから——少し目を逸らして、「たまにはここでお茶を飲んでいけ」と言った。診療所の椅子に座ると、なぜか落ち着いた。
味噌汁を毎朝二つ作っている。向かいの椀を毎朝捨てている。でも作ることをやめない。
唐辛子の鍋を、毎日作るようになった。辛いものが好きになった。感情を封じるために。——チヨにはそれが分かる。辛さで何かを追い出そうとしている。
「ごめんね。でも、いつか——」
ある夜。チヨは写し世で、奇妙な音を聞いた。
音。写し世にも音はある。だが現世の音は、通常は届かない。忘却の壁が二つの世界を完全に隔てている。
でも——一つだけ、届く音があった。
ギイ。
階段の三段目の軋み。
ルカが階段を降りる。三段目を踏む。ギイ。その音だけが、写し世と現世の膜を越えて、チヨの耳に届いた。
なぜこの音だけが——。チヨには分かった。三段目は、チヨとチクワが毎朝座っていた場所。ルカが毎晩降りてくる音を聞いていた場所。三代分の記憶が染みついた一段の木の板。百年分の足音が堆積した場所。
その木の板が——写し世と現世を繋ぐ、たった一本の細い管になっている。物理的な声は届かない。想いも届かない。でも——三段目の軋みだけは、二つの世界の共通の音楽として、薄い膜を越えてくる。
チヨは毎朝、その音を待った。
ギイ。——ルカが起きた。今日も元気だ。
ギイ。——今日は少し遅い。寝坊したのだろう。
ギイ、ギイ。——二度踏んだ。立ち止まったのだ。三段目で。何かを感じたのだろうか。
この音がある限り、チヨとルカは繋がっている。声は届かなくても。手が届かなくても。——三段目の軋みだけが、姉と妹を結ぶ最後の糸。
懐中時計が、写し世でかすかに震えた。
まだ動かない。だが——震えた。
ルカの力が、少しずつ目覚め始めている。金色の瞳に、ほんの一瞬だけ——光が戻る瞬間がある。写祓の最中に。まだルカ自身は気づいていない。
いつか——七年後か。十年後か。ルカの瞳に金色が完全に戻ったとき。
そのとき、クロが動く。
あの黒い狐が——チヨとの約束を果たすために、ルカの前に現れる。
そして、新たな旅が始まる。
チヨは写し世から、ルカを見守り続けた。毎朝。毎晩。味噌汁を二つ作るルカを。角を曲がる前に手を振るルカを。唐辛子の鍋をかき混ぜるルカを。
声は届かない。手も届かない。でも——。
「ルカ。あなたなら大丈夫。いつか思い出してくれたら、私はもう一度、あなたのそばにいられる」
写し世の白い空間で、チヨは静かに微笑んだ。
手に、最後に撮った乾板が残っている。白飛びした一枚。像は結んでいない。でも——銀塩の上に、透明な祈りが定着している。
これが——橋爪チヨが残した、最後の写真。
目には見えない、永遠の一枚。
*
ルカの夢写師としての物語は、これから始まる。
*
その夜。ルカは夢を見た。
誰かが、微笑んでいた。逆光の中で。顔が見えない。でも——髪が風に揺れている。瞳の色が——。
見たことがある気がする。どこかで。ずっと前に。
女性が何か言った。声は聞こえない。でも、唇が動いた。
「——おはよう」
ルカは目を覚ました。頬が濡れていた。夢の内容は——もう思い出せない。白い光と、温かい笑顔だけが、胸の奥に残っていた。
名前は思い出せない。でも——その笑顔は、なぜか胸を温かくした。
階段を降りた。三段目が軋んだ。——写し世で、チヨがその音を聞いた。今日も元気だ。
台所に立った。味噌汁を——二つ。
向かいの席に椀を置いた。湯気が立ちのぼる。
チクワが来て、三段目に座った。金色の目で、二階を見上げている。誰かが降りてくるのを、まだ待っている。
写真館の窓から、朝日が差し込んでいた。古い木の床に四角い光が落ちている。
ルカの手が——無意識に、エプロンの紐を結んだ。左手で支えて、右手でたすきを。誰に教わったか覚えていないが、指が覚えている。
——いつか、この手が思い出す日が来る。
——その日まで——味噌汁を二つ作り続ける。
写し世の底で、チヨは目を閉じた。耳を澄ませた。
ギイ。
三段目の軋みが聞こえた。ルカが階段を降りていく。今日も。明日も。明後日も。
この音がある限り、チヨとルカは繋がっている。忘却の壁を越えて。時間を越えて。現世と写し世を越えて。
たった一段の、古い木の板の軋みが——二人の世界を結ぶ、永遠の音楽。
橋爪家の女たちは、代々こうして祈りを残してきた。名前は消えても、祈りは残る。百年後も、千年後も。
——そして、新たな物語へ——




