第35話 井戸への道
夕霧村。
チヨは村の入口に立った。
かつて白い霧に包まれていた村。朝は鶏が鳴き、夕方には子供の笑い声が響いていた村。八百屋の佐々木さんが「チヨちゃん!」と呼んでくれた村。豆腐屋の山田のおばちゃんが湯葉を差し出してくれた村。桐生さんが百年の時計を磨いていた村。
今は——凍りついている。チヨには見えないが、熱で分かる。家々の中に、人の熱がない。食卓に茶碗が残されたまま。畳の上に座布団が並んだまま。学校の黒板に「ともだちにやさしくする」の文字が残ったまま。
時間が止まった村を、チヨは歩いた。半透明の体で。地面に足跡は残らない。空気を動かす体もない。この村を通過する最後の人間——いや、もう人間と呼べるか分からない存在。
石畳を歩く。あの角を曲がると、写真館がある。毎朝、ルカがこの角を曲がって学校に行った。曲がる前に振り返って、手を振ってくれた。——この石畳には、ルカの足跡が何百回分も刻まれているはずだ。チヨには見えないが。
曲がらない。写真館の方には行かない。振り返ったら、戻りたくなる。
市場の前を通った。佐々木さんの八百屋は——シャッターが下りている。トマトが並んでいた棚が空だ。あのトマト。色が見えなくなった日に、ルカに「一段と赤いね」と言われたトマト。佐々木さんは久遠木に避難した。「いらっしゃい、チヨちゃん」の声はもう聞こえない——チヨには最初から聞こえなかったが。
山田さんの豆腐屋も閉まっている。湯葉の試食が出ていた台だけが、ぽつんと残っている。台の上に、小皿が一枚。洗い忘れた小皿。山田のおばちゃんは急いで荷造りをしたのだろう。小皿を一枚、置き忘れた。——この小皿にも、記憶が染みている。何百人もの村人が湯葉を乗せて食べた、小さな磁器の皿。
桐生さんの時計屋。百年の柱時計だけが、店の奥で止まっている。七時四十二分。——まだ止まっていない。でも今夜——チヨの時計と同じ時刻で止まるだろう。
郵便局の前を通った。田中さんのポスト。三十年前のラブレターを届け損ねたポスト。——あの手紙の想いは、チヨの写真で墓前に届けた。でもこのポストは——もう誰の手紙も受け取らない。
小学校の前。校庭に誰もいない。ブランコが風に揺れている——揺れているはずだ。チヨには風も感じない。黒板だけが、校庭の隅に残っている。ピンクのチョークの文字。「ともだちにやさしくする」。——まだ消えていない。あの子は——ピンクのチョークの女の子は——無事に避難しただろうか。きっと、新しい学校で、新しい友達と、また黒板に字を書いているだろう。
井戸が近づいている。写し世の気配が——命の熱の感じ方が変わる。現世の熱ではない。もっと深い、もっと冷たい、もっと古い熱。千年分の祈りが堆積した場所の熱。
井戸の前に着いた。
シロミカゲの熱がある。白い、静かな熱。そしてもう一つ——クロの熱。黒い、揺れる熱。封印の時を待っている。
井戸の縁に、もう一つの熱源。柊介だ。観測装置を抱えて座っている。残留感光密度計の針が、まだ振れているはずだ。最後まで記録する科学者。
チヨは柊介の熱に向かって、意志を送った。声は出ない。手も動かない。でも——光の意志として。
——風見さん。一つだけ、お願いがあります。
柊介の熱が少し揺れた。チヨの意志を感じ取ったのだろうか。科学者の目が、チヨの方を向いたらしい。
——いつか、私の妹が迷ったら。あなたの知恵を貸してあげてください。あなたの記録を。あなたの装置を。あなたが見てきたものを。——もしそれが無理なら、あなたの子供に。孫に。いつか、写真と科学が出会う日が来る。その日に——妹のそばに、あなたの血を引く誰かがいてくれたら。
柊介が——ノートに何か書いた。チヨには見えないが、ペンの熱が動いたのが分かった。約束として。記録として。科学者は記録する。約束も、記録する。
チヨは井戸の前に立った。
魂写機は——健司が運んでくれていた。井戸の横の石の上に置いてある。チヨの手では持てない。すり抜けてしまう。
白い狐が、チヨの肩にそっと尾を巻きつけた。千年の優しさが、冷たく、温かく、魂に触れた。——頑張れ、とは言わなかった。言う必要がなかった。尾の温もりが、すべてを伝えていた。
シロミカゲの力が、魂写機をチヨの手に固定した。写し世の力で、半透明の手と現世の物質を繋ぐ。一時的な橋。最後の写祓のために。
チヨの手に、魂写機の重さが戻った。八キロ。この重さを——もう一度、感じられた。触覚はないのに。重さだけが、魂に伝わる。二十二年間、持ち続けた重さ。母から受け継いだ重さ。
「は・じ・め・よ」
シロミカゲの意志が、チヨの魂に直接伝わった。声ではない。熱でもない。千年の意志が、チヨの魂に触れた。




