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第34話 夕暮れの別れ

 夕方。


 チヨは一人で夕霧村の井戸に向かう。ルカは連れて行かない。あの子には——最後まで、普通の夕方を過ごしてほしかった。写真館で宿題をして、チクワと遊んで、いつも通りの夕方を。


 だがその前に——健司に別れを告げなければならない。


 写真館の門の前。夕方の霧が立ち始めている。紫の霧と白い霧が混じり合って、不思議な色をしているはずだ。チヨには見えないが。


 健司の熱が、目の前にある。銀色の、安定した熱。この数日間——声を失ってからも、目を失ってからも、記憶を失いかけてからも——この熱だけは変わらなかった。揺るがなかった。


 健司がチヨの手に書いた。


「い・く・の・か」


 チヨは頷いた。首が動いたかどうか——半透明の体で、伝わったか分からない。でも健司の熱が少し震えたから、伝わったのだろう。


「ま・っ・て・い・る」


 チヨは健司の手に書いた。


「ま・た・な・く・て・い・い」


 七文字。待たなくていい。新しい人生を歩いてほしい。チヨのことは忘れて——いや、霧が忘れさせる。だから、意識的に忘れる必要もない。ただ——待つ必要はない。


 健司がもう一度書いた。


「ま・つ・よ」


 三文字。たった三文字に、この人のすべてが詰まっていた。


 チヨの手が止まった。この人は——待つのだ。チヨが消えた後も。記憶が消えた後も。何を待っているか分からなくなっても——何かを待ち続ける人なのだ。診療所の椅子に座って、窓の外を見て、誰かが来るのを待つ。名前も顔も思い出せない誰かを。


 ルカ編の手紙に「待たなくていい」と書いたのは、このためだ。待たせたくない。でも——この人は待つ。どんなに「待つな」と言っても。それがこの人の愛の形だ。


 チヨは色のない世界で、健司の手を探した。熱を頼りに。手が重なった気がした。


 最後の文字を書いた。


「あ・い・し・て・る。ず・っ・と」


 八文字。


 健司の熱が震えた。大きく、深く。泣いているのだ。声を上げて泣いている——チヨには聞こえないが、熱の震え方が、今までと違う。堪えていたものが、全部溢れている。


 チヨは振り返らずに歩き出した。


 一歩目で、足が地面にめり込んだ。半透明の体は、地面との境界も曖昧になっている。二歩目。三歩目。少しずつ、歩き方のコツを掴む。地面を「踏む」のではなく、地面の上を「漂う」ように。


 背後に、健司の熱がある。動かない。見送っている。チヨが闇の中に消えるまで。


 ——ありがとう。健司さん。


 声にならない言葉を、胸の中で呟いた。


 蛍の光の夜。健司が「きれいだな」と言った。チヨは「蛍の方がきれいよ」と言った。健司は「そうかな」と言って、チヨの横顔を見ていた。チヨはそれに気づいていた。気づいていて、気づかないふりをした。


 星空の帰り道。「全部終わったら——言う」と健司が言った。全部は終わらないと知っていた。でも——待つと言った。嘘をついた。最後の嘘。


 コーヒーの染みがついた白衣。毎朝こぼす。不器用なのは昔からだ。手術は正確なのに、日常動作だけ不器用。そのギャップが——好きだった。


 冷たい手を温めてくれた大きな掌。チヨの手はいつも冷たかった。薬品のせいだと思っていたが——きっと体質だ。健司はそれを知っていて、何も言わずに手を握ってくれた。


 全部——覚えている。名前を忘れかけても、この人の熱だけは忘れない。


 十歩。二十歩。健司の熱が遠くなる。でもまだ感じる。三十歩。四十歩。——薄くなっていく。写真館の門の前で、あの人が立ち尽くしている。


 五十歩。もう——感じられない。


 健司の熱が、チヨの感知圏から消えた。


 現世で最後に感じた人間の熱が、健司だった。


 着物のポケットの中で、ポケベルの角が腰に当たっている。健司に借りたまま返していない。返す機会は——もうない。


 指が動いた。ポケットの中で。目は見えない。耳は聞こえない。匂いも味も触覚もない。でも——指だけがテンキーの配置を覚えている。右手の親指が、闇の中でボタンを探り当てた。


 0。8。4。1。4。1。0。6。


 八つのボタンを押した。ルカに教わった数字の言語。おはよう、愛してる。——姉に届かなかったあの朝の挨拶を、今度は健司に送る。最後の朝の挨拶。もう朝は来ないけれど。


 送信ボタンを押した。押せたかどうかも分からない。触覚がないから。でも指が——押したと言っている。


 ポケベルがポケットの中で一度だけ震えた。送信完了の振動。体では感じられない。でも腰骨に当たった角の位置がほんの少しずれた。それだけで分かった。届いた。


 ——届かないかもしれない。電波が届かないかもしれない。健司がポケベルを持っていないかもしれない。でも——指は打った。闇の中で。声の代わりに。八桁の「おはよう、愛してる」を。


 霧の中に入った。紫の霧。体を通過していく。何も感じない。ただ闇の中を、命の熱だけを頼りに、一人で歩いていく。


 ——健司さん。七年後、あなたの診療所に一人の少女が来る。胸の穴が痛いと言って。そのとき——机の引き出しを、開けてあげて。


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