第33話 三人の午後
午後。健司が来た。
三人で、写真館の縁側に座った。チヨには見えないし、触れていないが、左にあの子の熱、右に健司の熱があるのが分かる。三人並んで座っている。最後の午後。
何も特別なことはしなかった。
あの子がノートに何か書いている気配がする。健司がそれを読んでいる。二人が筆談をしているのだろう。チヨには見えない。でも、二人の熱がときどき揺れるから——笑っているのかもしれない。三人で笑っている。声のない笑い。目の見えない笑い。でも——三人の命の熱が、同じリズムで揺れている。
風が吹いている——はずだ。五月の風。チヨには感じられないが、あの子の髪が揺れているのが——熱の動きで分かる。
健司がチヨの手に書いた。
「い・い・て・ん・き・だ。く・も・が・な・い。か・ぜ・が・き・も・ち・い・い」
チヨは微笑んだ。この人はずっと、チヨの感覚の代わりをしてくれている。色を伝え、音を伝え、匂いを伝え、今は天気を伝えてくれている。
チクワがやって来た。小さな熱源。猫はチヨの膝に乗ろうとして——。
すり抜けた。
猫の体が、チヨの膝を通過した。猫は着地し、不思議そうにしているらしい。もう一度飛び乗ろうとした。また、すり抜けた。三度目。すり抜けた。
猫は諦めなかった。四度目、五度目。何度すり抜けても、チヨの膝に乗ろうとする。触れられないのに。乗れないのに。
あの子の熱が揺れた。泣いているのだ。
チヨは手を伸ばした。チクワの小さな熱に向かって。触れられない。でも、手を伸ばした。猫は——チヨの手の真下に座った。触れてはいないが、一番近い場所に。猫なりの、精一杯の距離で。
しばらくして、あの子が、チヨの手のひらに書いた。
「ね・え・ち・ゃ・ん。か・え・っ・て・く・る・よ・ね」
姉ちゃん。帰ってくるよね。
チヨの唇が動いた。声は出ない。でも——。
「う・ん」
と、唇の形だけで答えた。あの子に見えただろうか。半透明の唇で。
健司がチヨの手に書いた。
「ル・カ・に・み・え・た。う・な・ず・い・て・い・た」
——ルカに見えた。頷いていた。
嘘だ。帰ってこられない。でも——今だけは、嘘でいい。今だけは。
縁側で三人、しばらく座っていた。
何も話さなかった。何も見えなかった。でも——三つの命の熱が、隣り合って、静かに脈打っていた。
健司の熱が少し動いた。ノートに何か描いている。ルカに見せた。二人の熱が大きく揺れた——笑っている。
ルカがチヨの手のひらに書いた。
「け・ん・じ・せ・ん・せ・い・が・ね・こ・の・え・を・か・い・た。へ・た・く・そ」
チヨは声のない笑いを浮かべた。肩が揺れた。この人は医学論文は完璧に書けるのに、絵だけは壊滅的に下手だ。
健司がチヨの手に書いた。
「わ・ら・う・な。い・っ・し・ょ・う・け・ん・め・い・か・い・た」
ルカの温もりがまた揺れた。声を上げて笑っているのだろう。チヨには聞こえないが、笑いの振動が空気を通して体に触れた。この振動を覚えていよう。笑い声の音は忘れたが、鼓動の残響のような揺れは——体が覚えている。
チクワが縁側に来た。三人の真ん中に座った。四つの命の熱が並んでいる。五月の午後。チヨには見えないし聞こえないが——ルカと健司が笑っているから、きっと世界はまだ美しい。
チヨは右手を持ち上げた。空中に——ルカの手の輪郭をなぞった。
見えない。触れない。でも、ルカの命の熱の輪郭を——空気の中に、指先で描いた。小さな手。細い指。爪の形。手首の骨の膨らみ。——写祓ができなくても、写真が撮れなくても、チヨの指は「描く」ことができる。見えないスケッチ。空気の上に描く、最後の一枚。
ルカの手の隣に、健司の手もなぞった。大きな手。ごつい指。薬品で荒れた指先。——チヨの手と、同じ荒れ方。
三人の手を、空中に描いた。並んだ三つの手。見えない。消える。空気に溶ける。でも——描いた瞬間だけは、確かにそこにあった。
これが、最後の午後だった。




