第32話 透明な朝食
1994年5月25日、午前四時。
最後の朝が来た。
チヨは闇の中で意識を取り戻した。目は見えない。耳は聞こえない。匂いも、味も、触覚もない。残っているのは——命の熱を感じる力と、崩れかけの記憶。
隣にルカの熱がある。太陽のような熱。昨夜も一緒に眠ってくれた。毎晩、チヨの布団に潜り込んでくる。十五歳の妹。名前は——思い出せない。でも、この熱は知っている。かけがえのない熱。
起き上がろうとした。体が——軽い。軽すぎる。
健司が昨日書いてくれた。「体が透けている」と。半透明になり始めている。存在が薄れている。封印の前兆だ。
台所に行こうとした。立ち上がる。足の感覚はないが、命の熱で床の位置は分かる。一歩。二歩。廊下の空気が動いた——風ではない。自分が動いたことで空気が揺れた。その揺れが体を通過していく。半透明の体でも、空気の抵抗はわずかに感じる。
階段。三段目——ここはいつも軋む段だ。足を置いた。軋んだかどうかは分からない。でも——三段目の木が沈む感覚が、骨を通して伝わった気がした。体重はもうほとんどないはずなのに。百年分の足音が染みた板が、チヨの存在を覚えているかのように。
台所に着いた。鍋の位置は、金属の冷たい熱で分かる。蛇口の方角は、水道管が壁の中を通る振動——水圧のかすかな震え——で分かった。
味噌汁を作ろうとした。
水を入れる。蛇口のハンドルに手をかけた——。
すり抜けた。
手が、金属を通り抜けた。
もう一度。手を伸ばす。蛇口に——触れない。指が、金属の中を通過していく。固体の抵抗がない。手が物質を掴めなくなっている。
鍋を持ち上げようとした。すり抜ける。包丁を取ろうとした。すり抜ける。冷蔵庫の扉に手をかけた。すり抜ける。
何も、触れない。何も、持てない。
チヨは台所の真ん中に立ち尽くした。闇の中で。
味噌汁を作りたかった。最後の朝くらい、あの子に味噌汁を作りたかった。豆腐とネギの、少し甘めの味噌汁。毎朝作っていた。母から教わった手順で。昆布を水に浸して十五分。鰹節を入れて、ひと煮立ちさせて。豆腐をさいの目に切って、ネギを小口切りにして、味噌を溶いて——。
手順は全部覚えている。体が覚えている。でも、その手が物に触れない。知識はある。技術もある。愛情もある。でも——それを形にする手段がない。
これが、消えるということか。
想いがあるのに、伝えられない。作りたいのに、作れない。触れたいのに、触れない。存在しているのに——いないのと同じ。
もう、できない。
涙が落ちた。涙の感触は分からない。涙が頬を伝っているかどうかも。でも——顔が濡れた気がした。最後に作った味噌汁は、昨日の朝だった。味が分からず、匂いも分からず、ただ体の記憶だけで作った味噌汁。あれが最後だったのだ。もっと——もっと丁寧に作ればよかった。
あの子の熱が近づいてきた。階段を降りてくる。三段目を踏む。——軋んだだろうか。あの子の足音は軽い。十五歳の足音。
「……姉ちゃん?」
聞こえない。でも唇の形が——いや、見えない。熱だけ。太陽の熱が、台所に入ってきた。少し揺れている。不安で。こんな時間に姉が台所にいるのが、分かったのだろう。
あの子の手が、チヨの手に触れたらしい。掌に文字を書く。
「な・い・て・る・?」
泣いている。味噌汁が作れなくて、泣いている。最後の朝に、何もしてあげられなくて。
あの子の熱が一瞬止まった。チヨの手が——半透明で、あの子の手をすり抜けたのだ。触れようとしたのに。あの子は、それに気づいた。
あの子は泣かなかった。
あの子が動いた。冷蔵庫を開ける。冷気の熱変化でそれが分かった。鍋を棚から出す。水を入れる。コンロに火をつける。——火の熱が、台所の空気を少し変えた。
あの子が——味噌汁を作り始めた。
チヨは台所の隅で、あの子の熱の動きを追った。冷蔵庫から豆腐を出す。包丁で切る。トントントンと——聞こえないが、リズミカルな熱の揺れで分かる。ネギを刻む。味噌を溶く。
——手順が正しい。チヨが教えた通りの手順。出汁は昆布から。鰹節を入れて、ひと煮立ち。豆腐はさいの目。ネギは小口切り。味噌は少し甘めに。
あの子は泣いていなかった。泣いたら、姉が辛くなるから。泣く代わりに、味噌汁を作っている。姉ができないことを、代わりにやっている。十五歳の少女が。
あの子は、ちゃんと覚えている。
二つの椀に注ぐ音。箸を二膳並べる音。——聞こえないが、熱の動きで分かる。あの子が椀を一つ、チヨの前に置いた。
チヨは椀に触れられない。手がすり抜ける。飲めない。味も分からない。
あの子は椀を置いた。
あの子の掌に、文字を書いた。
「あ・り・が・と・う」
あの子が泣いていた——のだろう。でも、味噌汁を飲み始めた。一口ずつ。チヨの前の椀は、そのまま。湯気が立ちのぼっている——はずだ。




