第31話 封印の日
前夜——1994年5月24日の夜。
ルカが写真館の居間に座っていた。チヨが帰ってくるのを待っている。健司に連れられて、チヨが玄関を通った。半透明の体を、健司が支えている。
ルカの熱が——怒りで揺れていた。チヨには見えないが、熱の質が違う。いつもの太陽の温かさではない。もっと鋭い、もっと熱い、灼けるような熱。
ルカがチヨの手を掴んだ。——掴もうとした。手がすり抜けた。
ルカの熱が凍った。
もう一度。掴もうとした。すり抜けた。
ルカがチヨの前に立った。チヨの手のひらに、激しい勢いで文字を書いた。
「ね・え・ち・ゃ・ん。ほ・ん・と・は・な・に・も・み・え・て・な・い・ん・で・し・ょ」
——姉ちゃん。本当は何も見えてないんでしょ。
チヨは動かなかった。
「き・こ・え・て・も・い・な・い。さ・わ・れ・も・し・な・い。か・ら・だ・が・す・け・て・る。し・ん・で・い・く・み・た・い」
死んでいくみたい。
ルカの文字が震えている。泣きながら書いている。チヨには見えないが、文字の形の乱れで分かる。
「な・ん・で・お・し・え・て・く・れ・な・い・の。な・ん・で・い・つ・も・だ・い・じ・ょ・う・ぶ・っ・て・う・そ・つ・く・の」
——なんで教えてくれないの。なんでいつも大丈夫って嘘つくの。
チヨの胸が裂けそうだった。この子は——気づいていた。ずっと。市場でトマトを選べなかったときも。呼び鈴が聞こえなかったときも。味噌汁の濃さが毎日違ったときも。全部、気づいていた。気づいた上で、姉の嘘に合わせてくれていた。
ルカは十五歳だ。子供ではない。姉が嘘をつく理由を、分かっている。分かった上で——今夜、限界が来た。
チヨはルカの手を探した。見えないし、触れない。それでもルカの手のひらに、文字を書いた。
「か・ん・が・え・す・ぎ・よ」
七文字。——考えすぎよ。
残酷な言葉だと分かっていた。ルカの直感は正しい。全部正しい。それを「考えすぎ」と切り捨てるのは——姉として、最も残酷な嘘だ。
けれど本当のことを言えば、ルカは一緒に来ようとする。封印に。写し世に。「私も行く」と。
それだけは——。
ルカの熱が、しばらく震えていた。長い時間。五分か、十分か。
やがて——ルカの熱が、少し落ち着いた。完全にではない。でも、灼ける熱から、温かい熱に戻った。
ルカが手のひらに書いた。
「う・そ・つ・き」
四文字。
「で・も・す・き」
四文字。
嘘つき。でも好き。
チヨの涙が落ちた——のだと思う。見えない涙が。
ルカが布団を持ってきて、チヨの隣に敷いた。今夜も一緒に眠る。最後の夜を。
——ごめんね、ルカ。明日——全部、終わる。あなたが「嘘つき」と呼んだこの姉は、明日——消える。




