表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/44

第31話 封印の日

 前夜——1994年5月24日の夜。


 ルカが写真館の居間に座っていた。チヨが帰ってくるのを待っている。健司に連れられて、チヨが玄関を通った。半透明の体を、健司が支えている。


 ルカの熱が——怒りで揺れていた。チヨには見えないが、熱の質が違う。いつもの太陽の温かさではない。もっと鋭い、もっと熱い、灼けるような熱。


 ルカがチヨの手を掴んだ。——掴もうとした。手がすり抜けた。


 ルカの熱が凍った。


 もう一度。掴もうとした。すり抜けた。


 ルカがチヨの前に立った。チヨの手のひらに、激しい勢いで文字を書いた。


「ね・え・ち・ゃ・ん。ほ・ん・と・は・な・に・も・み・え・て・な・い・ん・で・し・ょ」


 ——姉ちゃん。本当は何も見えてないんでしょ。


 チヨは動かなかった。


「き・こ・え・て・も・い・な・い。さ・わ・れ・も・し・な・い。か・ら・だ・が・す・け・て・る。し・ん・で・い・く・み・た・い」


 死んでいくみたい。


 ルカの文字が震えている。泣きながら書いている。チヨには見えないが、文字の形の乱れで分かる。


「な・ん・で・お・し・え・て・く・れ・な・い・の。な・ん・で・い・つ・も・だ・い・じ・ょ・う・ぶ・っ・て・う・そ・つ・く・の」


 ——なんで教えてくれないの。なんでいつも大丈夫って嘘つくの。


 チヨの胸が裂けそうだった。この子は——気づいていた。ずっと。市場でトマトを選べなかったときも。呼び鈴が聞こえなかったときも。味噌汁の濃さが毎日違ったときも。全部、気づいていた。気づいた上で、姉の嘘に合わせてくれていた。


 ルカは十五歳だ。子供ではない。姉が嘘をつく理由を、分かっている。分かった上で——今夜、限界が来た。


 チヨはルカの手を探した。見えないし、触れない。それでもルカの手のひらに、文字を書いた。


「か・ん・が・え・す・ぎ・よ」


 七文字。——考えすぎよ。


 残酷な言葉だと分かっていた。ルカの直感は正しい。全部正しい。それを「考えすぎ」と切り捨てるのは——姉として、最も残酷な嘘だ。


 けれど本当のことを言えば、ルカは一緒に来ようとする。封印に。写し世に。「私も行く」と。


 それだけは——。


 ルカの熱が、しばらく震えていた。長い時間。五分か、十分か。


 やがて——ルカの熱が、少し落ち着いた。完全にではない。でも、灼ける熱から、温かい熱に戻った。


 ルカが手のひらに書いた。


「う・そ・つ・き」


 四文字。


「で・も・す・き」


 四文字。


 嘘つき。でも好き。


 チヨの涙が落ちた——のだと思う。見えない涙が。


 ルカが布団を持ってきて、チヨの隣に敷いた。今夜も一緒に眠る。最後の夜を。


 ——ごめんね、ルカ。明日——全部、終わる。あなたが「嘘つき」と呼んだこの姉は、明日——消える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ