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第30話 最後の準備

 残り一日。


 明日の夜、封印を行う。チヨの存在が消える。


 今日のうちに、三つのことをしなければならない。記憶が残っているうちに。名前は思い出せないが、やるべきことは——魂が覚えている。手紙に書いた。ノートに書いた。感覚があった頃の自分が、未来の自分に指示を残してくれた。


 一つ目。フィルム。


 暗室の棚から、一本のフィルムを取り出す。目が見えないから、手探りで。触覚もないから、熱で——フィルムの金属缶が、かすかに冷たい熱を放っている。缶の形で判別する。36枚撮りの缶。これだ。


 このフィルムには、チヨが撮った写真が入っている。あの子と、あの人と——いや、正確にはチヨは写っていない。撮ったのがチヨだから。写真の中にいるのはあの子と健司の二人。笑っている。並んで。——でも、二人の間に不自然な空間がある。人ひとり分の隙間。チヨが立つべきだった場所。


 チヨは自分が写っていなくてもいいと思った。二人が笑っていれば。二人の幸せがそこにあれば——チヨの魂は、その空間に宿れる。写っていない写真にこそ、撮影者の想いが残る。それが写真というものだ。色を失う前に撮った一枚。まだ世界に色があった頃。


 健司——名前は覚えている。不思議だ。あの子の名前は忘れたのに、健司の名前は残っている。心の欠片の代償は予測できない。大切なものほど先に消えるのか。それとも——大切さの種類が違うから、消える順番も違うのか。


 健司に支えられて、診療所に向かった。歩けない。足の感覚がないから、地面を踏んでいるか分からない。健司がチヨの腕を取り、一歩ずつ導いてくれる。二人の間に言葉はない。チヨは声が出ず、健司は——たぶん、泣くのをこらえている。


 診療所に着いた。健司がチヨの手を導いて、机の引き出しを開けさせた。


 チヨはフィルムの缶を、引き出しの奥にそっと入れた。入れる瞬間、缶を手放すのが怖かった。このフィルムは——今の自分を現世に繋ぎ止める、唯一の錨だ。感覚をすべて失い、記憶も崩れかけている今、「橋爪チヨがここにいた」という証拠は、この一本のフィルムだけ。


 写し世に沈めば、チヨの存在は現世から消える。名前も、顔も、声も、誰の記憶にも残らない。でも——このフィルムだけは残る。銀塩の上に焼きつけられた光は、霧では消せない。


 いつかあの子が、この町に来る。名前は出てこないが、太陽のような熱の子が。健司を訪ねて来る日が、必ずある。そのとき、この引き出しを開ける。フィルムを見つける。現像する。そして写真の中の空白を、見つける。


 なぜ診療所を選んだのか。答えは単純だった。あの子はいつか傷つく。記憶のない傷を抱えて、胸の穴に怯えて——どうしようもなくなったとき、医者のところに行く。体の痛みではなく、心の痛みを抱えて。そのとき——健司がいる。健司の机の引き出しに、このフィルムがある。


 フィルムは処方箋だ。あの子の心の傷を癒す、唯一の処方箋。写真の中の空白が、あの子に問いかける。「ここにいた人を、思い出して」。それが——治療の始まりになる。


 知らない女性の写真。でもどこか懐かしい顔。あの子は首を傾げるだろう。「この人、誰?」と。その問いが——すべての始まりになる。


 チヨは引き出しから手を離した。離した瞬間、体が少し軽くなった気がした。錨を手放した。でも——フィルムが残っている限り、チヨは完全には消えない。


 二つ目。手紙。


 もう書いてある。数日前の夜、まだ目が見えた頃に書いた。ノートの半分を使って。あの子への手紙。味噌汁のこと。写真館のこと。影コロジオンのこと。桜の花びらの粉末のこと。そして——ごめんなさいと、ありがとうと、大好きと。


 三つ目。懐中時計。


 銀の懐中時計。橋爪家の女性が代々受け継いできた宝物。蓋の裏に鈴蘭の彫刻。チヨの手から、あの子の手へ。


 あの子の部屋に行った。健司が階段を上がるのを支えてくれた。三段目が——たぶん鳴った。聞こえないが、いつも鳴る段だ。この音を——あの子は毎晩聞いている。チヨが降りてくる音を。


 あの子は学校に行っている。熱源がない。部屋は空だ。でも——あの子の熱の残像が、部屋の中にかすかに漂っている。昨夜ここで眠っていた温もり。枕の位置。布団の形。壁にはスケッチブックから切り取った絵が貼ってある——はずだ。チヨには見えないが、画鋲の冷たい熱が壁のあちこちから感じられる。あの子が描いた絵。色が消え始めた絵。


 机の上に何かがある。手で触れた——スケッチブック。開いたまま。途中まで描いた絵がある。何の絵か分からない。でも——鉛筆の線の凹凸が、指先に伝わった。この子は力強い線を引く。迷いのない線。チヨと同じだ。写真を撮るときのチヨと同じ。一瞬を逃さない目と手。


 手探りで引き出しを見つけた。開けた。中に、懐中時計をそっと入れた。時計の熱が——まだ脈打っている。カチ、カチ、カチ。聞こえないが、熱の振動として感じる。この引き出しの中で、時計は動き続ける。あの子が見つけるまで。七時四十二分で止まるまで。


 帰りに——手紙も入れた。ノートの、あの子への手紙のページを破いて。破くとき、紙の感触は分からなかった。でも、紙が裂ける振動だけが——かすかに、指先に伝わった気がした。大切なものを壊すときの振動。


 手紙には何を書いたか。目が見えた頃に書いたから——たぶん、読める字のはずだ。味噌汁の作り方。帯の結び方。暗室の薬品の在庫。チクワの好きなおやつ。——そして、「大好き」と「ごめんなさい」と「ありがとう」。この三つの言葉を、何度も何度も書いた。


 三つの準備が終わった。


 健司が来た。チヨの体を支えてくれている。もう自力で歩くのが難しくなっている。体が——半透明になり始めているらしい。健司がチヨの手に書いた。


「か・ら・だ・が・す・け・て・い・る」


 透けている。消え始めている。


 明日まで保つだろうか。保たなければならない。あと一日。最後の一日を——あの子と過ごすために。


 健司がもう一度、チヨの手に書いた。


「ま・っ・て・る。い・つ・ま・で・も」


 待っている。いつまでも。


 チヨは闇の中で、健司の手があるはずの場所に向かって、自分の手を重ねた。触れている感覚はない。でも、健司の命の熱が——指先のすぐそばにある。


 ノートに——もう字が書けるか分からないが——最後の一文を書いた。たぶん読めない字だろう。でも書いた。


『健司さんへ。待たなくていい。でも——きっとあの人は待つでしょうね。ごめんなさい。ありがとう。愛してる』


 明日。すべてが終わる。


 ——いいえ。すべてが始まる。あの子の、新しい物語が。

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