第29話 名前を呼べない
暗室から出ると、あの子が待っていた。
熱で分かる。太陽のような、温かい熱。あの子だ。名前は分からないが、この熱は世界で一つしかない。絶対に間違えない。どんなに記憶が消えても、この熱だけは見失わない。
あの子が手を取り、掌に文字を書いた。
「だ・い・じ・ょ・う・ぶ・?」
大丈夫ではない。あなたの名前が分からない。でも——あなたが大切な人だということは分かる。記憶よりも深い場所で、それだけは消えていない。
チヨは唇を動かした。声は出ないが、口の形で伝えようとした。
あ——の——こ。
「あの子」としか呼べない。目の前にいるのに。毎日一緒にいるのに。味噌汁を作ってくれるのに。帯の結び方を一緒に練習したのに。夜、布団の中で指切りをしたのに。
あの子の手が震えた。掌に書かれた文字が震えた。
「ル・カ・だ・よ。わ・た・し・ル・カ。ね・え・ち・ゃ・ん・の・い・も・う・と」
ル、カ。姉ちゃんの妹。
その名前を読んだ瞬間、胸の奥で何かが震えた。知っている。この名前を知っている。この二文字は——世界で一番大切な音のはずだ。でも——記憶と結びつかない。名前だけが浮いている。「ルカ」という音と、目の前のこの子を繋ぐ糸が、霧の中に沈んでいく。
あの子の——ルカの——手を握ろうとした。触覚はない。握れているか分からない。でも、握ろうとする意志だけは残っている。
ルカが——たぶん泣いている。熱源が揺れている。小刻みに。肩が震えている。
チヨは感覚の荒野で、ルカの温もりに向かって手を伸ばした。
ルカの手がチヨの手を掴んだ——たぶん。熱が近づいた。
ルカがチヨの掌に、もう一度文字を書いた。ゆっくりと。何度も。
「ル・カ」
もう一度。
「ル・カ」
もう一度。
「ル・カ」
何度も、何度も。同じ二文字を。チヨの掌に刻みつけるように。消えないように。消させないように。十五歳の少女が、全力で、姉の掌に名前を書き続けている。
チヨの掌に、ルカの涙が落ちた。温度は分からない。でも、湿り気だけは感じた。湿った掌の上に、ルカの指が「ル・カ」を書き続ける。涙で滑って、文字の形が崩れる。それでもルカは書き続ける。
ルカの指の動きが——だんだん強くなっていった。最初は丁寧だった。一画ずつ、ゆっくりと。でも何度書いてもチヨの目に認識の光が灯らないから——指に力が入っていく。掌に爪が立つほど強く。
——忘れないで。お願い。忘れないで。
声は聞こえない。でもルカの指の圧力が、言葉の代わりに叫んでいた。
——ごめんね。ごめんね、ルカ。
名前が出た。心の中で。口には出せない。声がないから。でも——名前が、一瞬だけ戻った。ルカ。大切な妹。「絶対忘れないよ」と言ってくれた子の名前を——私が忘れた。針千本の約束を、破ったのは私の方だ。
次の瞬間には、また霧に沈んだ。でも——一瞬でも戻ったなら、記憶は完全には消えていない。どこかに残っている。深い、深い場所に。
ノートがある。チヨが書いたノート。まだ感覚があった頃に書いた記録。ルカへの手紙。
ルカがそのノートを開いて、チヨの手のひらに押し当てた。
文字の凹凸は感じない。でも——ノートの存在を、命の熱で感じる。紙に染みた自分の涙の、かすかな熱。自分が書いたもの。自分の想い。消えかけた記憶の代わりに、文字が残っている。
チヨはノートを胸に抱いた。抱いている感触はない。でも、そうすることで——自分が自分であることを、かろうじて繋ぎ止めていた。




