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第28話 心の欠片

 1994年5月24日。


 目が見えない。耳が聞こえない。声が出ない。匂いが分からない。味が分からない。触覚がない。


 残っているのは——命の熱を感じる力と、記憶。


 今日、最後の欠片——心の欠片——を手に入れる。代償は、記憶の一部。


 朝。ルカの熱がそばにある。ルカが手のひらに文字を書く。触覚はないのに文字の形だけが伝わる。二人だけの、不思議な通信手段。


「き・ょ・う・も・い・る・よ」


 ——今日もいるよ。


 ルカは毎朝、同じ文字を書いてくれるようになった。「今日もいるよ」。それが、チヨの一日の始まりだった。目も見えず耳も聞こえない闇の中で、最初に届く言葉。


 チヨはルカの手に書いた。


「あ・り・が・と・う」


 健司が来た。彼の熱は安定している。毎日変わらない。揺るがない熱。嵐の中の灯台のように。


 チヨはノートに——目が見えないから、たぶん字が曲がっている。紙の端からはみ出しているかもしれない——書いた。


『今日、最後の欠片を取りに行く。記憶を失うかもしれない。もし——私が、あなたたちの名前を忘れたら——ごめんなさい。でも、名前を忘れても、あなたたちを大切に思う気持ちは消えないと信じている。記憶よりも深い場所に、それはある。はずだから』


 健司がチヨの手に書いた。丁寧に。一文字ずつ。


「な・ま・え・を・わ・す・れ・て・も・て・を・は・な・さ・な・い」


 ——名前を忘れても、手を離さない。


        *


 心の欠片は、写真館の暗室にあった。


 最初からここにあった。八枚の鏡のうちの一枚——一番古い鏡の裏に、結晶が貼りついていた。チヨが毎日触れていた場所。何百回も写祓を行った部屋。記憶が最も濃い場所に、心の欠片は隠れていた。


 健司に導かれて暗室に入った。熱で鏡の位置を探り、手を伸ばした。指先が鏡の裏に触れた——触覚はないが、結晶の存在を「命の熱」で感じた。他のものとは違う、冷たくて鋭い熱。


 結晶に意識を集中した。


 記憶が——崩れ始めた。


 最初に消えたのは、小さな記憶。昨日の朝、ルカが手に書いてくれた文字の内容。先週の天気。暗室の薬品の在庫。写祓の技術的な手順の一部——硝酸銀の濃度が何パーセントだったか。桜の花びらの粉末を入れるタイミングが、現像液を注いだ後だったか前だったか。


 次に、もう少し大きな記憶。学校時代のこと。先生の名前と顔が消えた。友達。友達がいたはずだが、何人いたか分からない。市場で買い物をする手順。八百屋が道の右側だったか左側だったか。八百屋の名前。佐々木さん、だったか。佐々木……。トマトを選んでくれた人。「いらっしゃい、チヨちゃん」と呼んでくれた人の名前が——もう出てこない。


 健司。——健司さん。


 健司の漢字が分からなくなった。「けんじ」という音は覚えている。この人の名前だ。銀色の熱。安定した熱。白衣を着ている。コーヒーの染みがついた白衣。——白衣の色は何色だったか。白いはずだ。白とは何色だったか。


 記憶と感覚が同時に崩れている。色の記憶は最初に失ったはずだが、色という概念そのものが——遠くなっていく。


 そして——。


 ルカ。


 あの子。大切な——あの子。


 名前が——。


 ル——。


 出てこない。喉まで来ているのに。舌の上で転がっているのに。二文字の名前。最初の文字は「ル」だった気がする。でも確信がない。「ル」で始まる名前。金色の瞳の。味噌汁を一緒に飲む。帯の結び方を教えた。夜、布団の中で指切りをした。


 あの子の名前。大切な、大切な名前。「絶対忘れないよ」と言ってくれた子の名前を——私が、忘れた。


 でも——熱だけは分かる。


 この熱は、絶対に忘れない。名前が消えても、顔が消えても、声の記憶が消えても——この熱だけは、魂の一番深い場所に焼きついている。太陽のような、温かい、揺るがない熱。これが、あの子だ。名前はなくても、あの子はここにいる。

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