第27話 筆談の告白
翌朝。
目が見えない。触覚もない。音もない。匂いもない。味もない。
残っているのは——命の熱を感じる力と、記憶。
チヨは朝、布団の中で目を覚ました。目覚めたことが分かったのは、意識が戻ったから。目を開けたのか閉じたのか、自分でも分からない。
ルカの熱が、隣にある。昨夜から、ルカはチヨの布団に入って一緒に寝ていた。妹の体温が、チヨの右半身に伝わっている——はずだが、触覚がないから「温かい」という感覚はない。ただ、命の熱として——そこにいることが分かる。
ルカが起き上がった気配。チヨの手を取った——たぶん。手の感触はないが、ルカの熱源が近くに来た。
ルカがチヨの手のひらに、指で文字を書き始めた。
触覚はない。でも——不思議なことに、文字の形だけが分かった。指の圧力は感じない。温度も感じない。だが、ルカの「書きたい」という意志が、チヨの掌に直接伝わるような——。
「お・は・よ・う」
チヨの唇が動いた。声は出ない。
——おはよう。
*
午後。健司が来た。
チヨは居間の座布団に座っていた。目の前に、健司の熱源。銀色の光——いや、もう色は見えない。だが命の熱の中に、健司の感情が読める。緊張。決意。そして——覚悟。
健司がチヨの手を取った。触覚はないが、熱が近づいたのが分かる。
健司がチヨの手のひらに、ゆっくりと文字を書き始めた。
一文字ずつ。丁寧に。
「あ」
最初の一文字。
「い」
二文字目。
「し」
三文字目。チヨの心臓が跳ねた。
「て」
「る」
——愛してる。
チヨの目から涙が落ちた。涙の感触は分からない。涙の温度も、頬を伝う感覚も。でも——顔が濡れた気がした。
健司の手が、チヨの頬に触れた——たぶん。涙を拭おうとしている。触覚はない。でも、健司の手の熱が、頬のそばにある。
チヨは自分の手を動かして、健司の手を探した。見えないし、触覚もないから、熱を頼りに。手が——たぶん、健司の手に重なった。
筆談ボードは使えない。目が見えないから。代わりに、チヨは健司の手のひらに、自分の指で文字を書いた。
「わ・た・し・も」
四文字。それが、今のチヨに書ける精一杯だった。
二人はしばらく、手を重ねたまま動かなかった。見えない。聞こえない。触れている感覚もない。でも、二人の命の熱が——同じリズムで脈打っていた。
——全部終わったら、言いたいことがあったのに。
あの星空の夜。「全部終わったら、必ず言う」と健司は言った。全部が終わる前に、感覚が全部消えてしまった。声では言えない。目を見つめ合うこともできない。手を握り合う感覚すらない。
でも——伝えられた。五文字と四文字で。「愛してる」と「わたしも」。たった九文字の、世界で一番遠回りした告白。
声が出ていた頃に言えばよかったのか。色が見えていた頃に、健司の顔を見ながら言えばよかったのか。——いいえ。この九文字には、失ったすべてが詰まっている。色を失い、声を失い、匂いを失い、味を失い、光を失い、触覚を失った果てに——それでも消えなかった想い。だからこそ、この九文字は重い。世界一重い九文字だ。
村のほぼ全域が白黒になっていた。時計塔の針が止まっていた。七時四十二分で。残っているのは、井戸の周辺だけだった。
その日の夕方、風見柊介が村に入った。
白髪の老人。七十代。元京都大学の物理学教授。退官後は独自に「異常環境現象」を研究している。健司の父と交流があったらしい。
健司がチヨの手に書いた。
「か・が・く・し・ゃ・き・た。か・ぜ・み・し・ゅ・う・す・け。み・か・た」
柊介はチヨの前に来て——チヨには見えないが、熱源として感じた——深く頭を下げた。健司がその言葉を書いてくれた。
「き・み・の・か・く・ご・に・け・い・い・を。き・ろ・く・す・る」
——君の覚悟に敬意を。記録する。
科学者が、科学で説明できないものに頭を下げている。そしてそれを「記録する」と宣言した。チヨは沈黙の底で、かすかに微笑んだ。記録すること——写すこと。それはチヨの仕事と同じだ。
柊介は観測装置を写真館に持ち込んだ。健司がその様子をチヨの手に書いてくれた。
「は・こ・が・た・の・き・か・い」
箱型の装置。柊介が自作した「残留感光密度計」の初期型だった。写真の乾板に残る微弱なエネルギーを数値化する装置。本来は天文台で使うために設計したものだ。
柊介がチヨの写祓で使った乾板を計測した。健司がその反応を伝えてくれた。
「は・り・が・ふ・り・き・れ・た」
針が振り切れた。理論上ありえないエネルギーがガラス板に吸い込まれていると、柊介は驚愕したらしい。
チヨは健司の手のひらに、ゆっくりと書いた。
「こ・れ・は・お・も・い・で・す」
——これはエネルギーではない。想いです。
健司がそれを柊介に伝えた。しばらく沈黙があった——柊介の熱源が動かなくなった。科学者が、言葉を失っている。
やがて健司がチヨの手に書いた。
「し・ゅ・う・す・け・が・い・う。お・も・い・を・け・い・そ・く・で・き・る・な・ら・の・こ・せ・る」
——想いを計測できるなら、残せる。
チヨの胸が震えた。この老科学者は——チヨの写祓を、科学の言葉に翻訳しようとしている。
柊介は残留感光密度計を乾板に当て直した。健司がその様子をチヨの手に書いてくれた。
「き・か・い・が・な・い・て・い・る。ぶ・う・ん・と」
装置が唸っている。箱型の筐体が振動し、針が回転している——計測範囲を超えて、ぐるぐると。金属部品の軋む音。やがて——パチンと何かが弾ける音がした。
「は・り・が・お・れ・た」
針が折れた。通常の物理量では説明できないエネルギーに、装置が耐えきれなかった。柊介は壊れた計測器を両手で抱え、しばらく黙っていた。
やがて健司がチヨの手に書いた。柊介の言葉を。
「五月二十三日。今日、私は一人の少女が「存在」という定義から外れていくのを見た。科学は彼女を救えないが、彼女がガラス板に定着させた「祈り」を、私はいつか数値化してみせる。この装置を改良し——孫の代までかかっても」
柊介はチヨの傍らに座った。健司がその言葉を中継した。
「し・ゅ・う・す・け・が・い・う。か・が・く・は・な・に・が・お・き・た・か・を・き・ろ・く・す・る。き・み・の・し・ゃ・し・ん・は・ど・う・お・も・っ・た・か・を・て・い・ち・ゃ・く・さ・せ・る」
——科学は「何が起きたか」を記録する。君の写真は「どう思ったか」を定着させる。
チヨは健司の手に書いた。
「お・な・じ・こ・と・で・す。の・こ・す・と・い・う・こ・と・は」
——同じことです。残すということは。
健司がもう一つ書いた。
「し・ゅ・う・す・け・が・わ・ら・っ・た。は・じ・め・て」
老科学者が初めて笑った。科学と祈りが同じだと言った少女の言葉に。柊介は壊れた装置を抱えたまま、ノートの片隅にチヨの横顔のスケッチを描いた。科学者の手は精密だ。この絵がやがて孫の蓮に渡る。
この人の孫が——いつか、ルカと出会うかもしれない。根拠のない、でも確信に近い予感があった。
*
深夜。
チヨは闇の中で目を覚ました。目は見えない。耳は聞こえない。触覚もない。それなのに——シロミカゲの気配が、部屋の中にある。白い、冷たい熱。
シロミカゲの意志が、チヨの魂に直接触れた。
——最後の欠片の前に、一つ確かめる。
チヨは待った。
——ルカの記憶を消す覚悟はあるか。
チヨの体が硬くなった。
——覚悟なら——。
——嘘をつくな。お前はまだ迷っている。
沈黙。シロミカゲの意志は鋭い。千年の神は、人間の嘘を見抜く。
——もし消さなかったら、どうなりますか。
——ルカはお前を追って写し世に来る。金色の瞳が境界を越える力を持っている。十五歳の少女が、姉を追って、写し世に沈む。お前と同じように消える。
——それは——。
——お前が選ばなければ、ルカが代わりに消える。それでもいいのか。
チヨの魂が震えた。怒りが——爆発した。
——ふざけないでください!
声のない叫びが、写し世の境界を揺らした。闇の中で、チヨの魂の光が一瞬だけ膨れ上がった。
——なぜ、こんな選択を強いるんですか。妹を忘れさせるか、妹を殺すか——どちらかを選べと? あなたたちは千年もの間、橋爪の女にこんな選択を押しつけてきたんですか!
シロミカゲの意志が——初めて、揺れた。
——……怒りは正しい。
——正しくない! 正しい怒りなんてない! ただ——理不尽なだけです!
長い沈黙。闇の中で、チヨの魂の光が脈打っていた。怒りの光。
やがて——シロミカゲが言った。
——お前の怒りを、受け止めた。千年の間、これほど強く怒った巫女はいなかった。
——褒めないでください。
——褒めてはいない。ただ——お前が怒れる人間であることを、確認した。怒りのない覚悟は脆い。怒った上で選ぶ覚悟だけが——封印を完遂できる。
チヨの怒りが——少しずつ、静まっていった。怒りの代わりに、深い悲しみが胸を満たした。
——消します。ルカの記憶を。——でも、一つだけ約束してください。
——何を。
——あの子が、いつか自分の力で思い出す可能性を、ゼロにしないでください。完全に消すのではなく——眠らせるだけに。いつか目覚める可能性を——一粒でも、残してください。
シロミカゲの意志が——かすかに、温かくなった。千年ぶりの温かさだったかもしれない。
——約束する。




