第36話 最後の写祓
チヨは魂写機を構えた。
最後の写祓。自分自身を——写す。
その前に——クロの熱が近づいた。黒い狐が、チヨの傍らに来た。忘却の使者の意志が、チヨの魂に直接触れた。
——巫女。一つだけ、言わせてくれ。
チヨは待った。
——お前を忘れさせるのは俺の役目だ。村人も。妹も。恋人も。全員の記憶からお前を消す。それが俺の仕事だ。——だが、俺だけはお前を忘れない。千年の記憶の中で、お前だけは消さない。
チヨの光の唇が動いた。声にならない声で。
——ありがとう。
——礼を言うな。俺はお前の人生を奪う側だ。
——奪ったんじゃない。私が差し出した。あなたのせいじゃない。
クロの熱が、一瞬震えた。千年間震えなかった忘却の使者が。そして——離れた。「七年待つ」と誓った狐が、持ち場に戻った。
*
乾板は最後の一枚。影コロジオンを流す手順は、もう体が覚えている。目が見えなくても、耳が聞こえなくても、触覚がなくても——手が動く。二十二年間、繰り返してきた手順。
ガラス板を持つ。影コロジオンを流す。虹色の干渉縞は見えないが、液の粘度と重さを魂で感じ取る。銀浴に浸す。暗箱にセットする。
すべてが——奇跡のように、正確に進む。体が覚えている。チヨの体が。橋爪家の女たちの体が。三代分の記憶が、指先に宿っている。
魂写機をファインダーの方に向けた——自分に向けて。
自分を写す。自分の魂を、乾板に定着させる。これが最後の「開く」だ。
三呼吸。
一度目で——残っている空気を全部吐いた。
二度目で——新しい空気を吸った。写し世の空気を。
三度目で——自分を、開いた。
すべてを受け入れる。封印の痛みも。消える恐怖も。あの子への愛も。健司への想いも。村への祈りも。全部。全部受け止める。
ファインダーの中に——。
あの子が、いた。
追いかけてきたのだ。ルカが——名前が出た。一瞬だけ。最後の瞬間に。ルカが、井戸まで走ってきた。
ルカの熱が、急速に近づいてくる。太陽が駆けてくる。全力で。
「姉ちゃん! 行かないで!」
聞こえない。でも——ルカの熱の中に、叫びの振動がある。全身で叫んでいる。
チヨの唇が動いた。声は出ない。
「ごめんね。大好き」
シャッターに指をかけた。
カシャリ。
——最後の音は、チヨ自身にも聞こえなかった。
この一枚は——白飛びする。
だがそれは、単に光が強すぎたからではない。チヨは意図的に露出を操作していた。三呼吸の最後の「開く」で、自分の魂の光を限界まで増幅させた。通常の写祓なら光量を抑えて像を結ばせる。だがチヨは——逆のことをした。白く飛ばした。
なぜか。
もしこの乾板にチヨの像が鮮明に残ったら——ルカは、この写真を見るたびに写し世に引きずられる。チヨの魂が乾板に残れば、ルカの金色の瞳がそれを「入口」として認識してしまう。だから——何も写さないで。白く。白く。
過酷な慈愛。姉が自分の像を消すことで、妹を守っている。
後日——この乾板は写真館の暗室に残される。ルカがいつか見つけ、現像を試みる。霧露液に浸しても、何も浮かばない。真っ白なまま。ルカは泣くだろう。「自分の技術が足りないから像が出ない」と思う。何度も試す。何度も。毎回、真っ白。やがてルカはこの乾板を棚の奥にしまい、触れなくなる。
ルカは知らない。姉が、自ら像を消したことを。ルカを守るために。
でも——白飛びした銀塩の上に、チヨの祈りは定着している。見えないだけ。祈りが濃すぎただけ。いつか——ルカの力が覚醒したとき、この白い乾板にチヨの姿が浮かび上がる。




