第七話:記録を渡す
井戸での邂逅から数日後、グラウンドは自分の宿の片隅に積んできた記録の束を、エリアーナの前に広げていた。
石に刻んだもの、羊皮紙に書き留めたもの、時には木の板に炭で走り書きしたものまで、形式はばらばらだった。北へ向かう旅の記録だけでなく、この国に留まってから書き溜めてきたものまで、300年近い歳月の蓄積だった。
「北の異常地帯のマナ濃度の変化、地脈の安定点の位置、マナの流れの方向性――」
グラウンドは記録の一つを手に取り、エリアーナに差し出した。
「俺が解けなかった謎です。あなたなら、解けるかもしれない」
その時、部屋の入口でゼノンが低い声を上げた。
「――待て。本気でそれ、渡すのか!?」
「渡す」
「国に持ち帰らずにか? 定期通信はしてるが、記録そのものはまだ一枚も国に送ってないだろう。女王様にはなんと説明するんだ!?」
ゼノンの言葉には、単なる反対以上の重みがあった。積み上げてきた成果を、他国の一個人に丸ごと手渡す――それは旅の目的そのものを差し出すようなものだ、という懸念だった。
「女王、シズク様への報告はしてる。でも、この記録の詳細までは送ってない。それはその通りだ」
「なら、まず国に持ち帰るのが筋じゃないのか。これは竜の国の調査だ。俺たちだけの判断で、よそに渡していいものなのか?」
珍しく食い下がるゼノンに、グラウンドはしばらく黙っていた。傍らでアリスが興味深そうに2人を見比べていたが、口は挟まなかった。
「――お前の言い分はもっともだ」
やがてグラウンドは静かに言った。
「だが、この記録を国に持ち帰っても、俺たちだけでは解けない。見ることはできても、意味づけができない。長年、俺は観察を続けてきたが、答えには一歩も近づけなかった」
「だからって!」
「エリアーナさんの研究には、俺1人では絶対に辿り着けない深さがある。それを目の当たりにしただろう、お前も」
ゼノンは何も言い返せなかった。あの朝、ファーファが映し出した投影――自分たちの観測記録が、初めて意味を持つ形に組み上がっていく様を、確かに見ていた。
「国のためを思うなら、抱え込むより、解ける場所に預ける方が早い。俺はそう判断した」
「……あんたが一人で決めていいことかよ」
「俺が持ってきた記録だ。どうやったら真理に近づけるか、それは俺が一番わかっているんだ。だから、俺が決める!」
短いやり取りの末、ゼノンは大きく息を吐いて壁にもたれかかった。納得はしていない、だがこれ以上は口を出さない、という態度だった。
「――勝手にしろ」
「ゼノン」とアリスが横から声をかけた。「心配なのは分かるけど、母がこの手の話で適当に扱ったことなんて一度もないわよ」
「お前に言われても……」
「それに、盗まれるとでも思ってるの? ここまで来て?」
ゼノンは答えなかったが、その沈黙は先ほどより幾分か柔らかいものだった。
「……ゼノンさんのご懸念、もっともです」
エリアーナが静かに口を開いた。
「記録の写しは、必ず私の配下の者がお国にお送りするようにいたします。それに――こちらにも、お渡しできるものがあります」
エリアーナは足元の鞄から、自分の研究記録を取り出した。かなりの厚みがあった。
「私も、この20年ほど、独自にマナの研究を続けてきました。あなたの記録と、私のこの記録を合わせて解析すれば、お互い1人では見えなかったものが見えてくるはずです」
「……あなたの方は、20年……。人間の人生で考えたら長いですな」
グラウンドは思わず呟いた。エリアーナの背後にある技術は、自分の想像を超えている。それがわずか20年で自分の300年分を軽々と読み解いてしまう理由なのだろう。だが、それでも――この土地に根を張り、自分の足で歩いて集めた記録でなければ、決して埋まらない空白があった。技術がどれほど進んでいても、実際にその場に立った者の記録には代えられない部分がある。どちらが欠けても、この日の答えには届かなかったのだと思うと、奇妙な感慨を覚えた。
「はい。ですから、これは一方的に頂くものではありません。相当の対価をお支払いしたうえでの交換です」
エリアーナはそう言って、自分の記録をグラウンドの記録の隣に並べた。
「お互いの成果を持ち寄って、初めて先に進める。そういう話だと、俺も思っています」
ゼノンがそれを見て、小さく鼻を鳴らした。
「……最初からそう言えよ」
「言おうとしていた」
グラウンドが苦笑すると、部屋の隅からファーファが浮かび上がった。
『補足します。エリー様の記録も相当な悪筆です。グラウンド様と、いい勝負ですぉ』
「ファーファ!!」
エリアーナとグラウンドの声が同時に重なった。アリスが小さく吹き出し、張り詰めていた空気が緩んだ。
エリアーナは二つの記録を並べたまま、しばらく地図の上に指を這わせていた。北の異常地帯、湖の安定点、そしてグラウンドが道中で見つけたあの刻文――「大いなる器が眠る、南の大陸の果て」。
「……グラウンドさん。この、南の大陸というのは」
「俺たちが来た道とは逆――南に、まだ見ぬ大陸があるという意味だと思います。刻文の一部は削られていて、詳しいことまでは……」
「私の記録の中にも、似た記述があります」
エリアーナは自分の束から一枚を抜き出した。
「南方の海の彼方に、大いなる眠りがある――そういう伝承の切れ端です。心当たりがあります。おそらく、南の果ての大陸か、あるいはさらに南、氷に閉ざされた大陸か」
「そこまで、分かるものなんですか?」
グラウンドは思わず聞き返した。自分の記録は、あくまで自分の足で歩いた範囲の観測に過ぎない。海の向こうの地理までは、想像すらしていなかった。
「私たちの方には、古い地図の写しが残っています。あなたの記録と、私の知識を合わせて初めて、行き先の見当がつく――そういう話です」
「符合、というやつかもしれません」
「あなたの記録がなければ、私はこの伝承をただの御伽噺として片付けていたと思います」
ゼノンが地図を覗き込んだ。
「じゃあ、次はそこに行くのか?」
「……行くとしたら、船が要ります。海を越える旅です」
エリアーナの言葉に、グラウンドは少し黙り込んだ。
「……そうなるど、俺は、行けません」
「え?」とゼノンが振り返った。
「俺の『土の感覚』は、大地を伝ってマナを読む力です。海の上では、足元に大地がない。使い物にならない」
自分の限界を、グラウンドは静かに認めた。
「それに、この土地に残って、エリアーナさんたちとの研究を続ける方が、俺の性に合っている。だが、……お前は違うだろう、ゼノン」
「俺は……」
「お前は闇と風、二つの感覚を持っている。海の上でも、風を読み、闇を通して気配を探れる。俺にはできないことだ」
ゼノンは何も言わなかったが、その沈黙には、これまでとは違う緊張が滲んでいた。
「1人で行かせる気か!?」
「まさか! 1人でなんて、行かせないわ!」
声を上げたのは、エリアーナではなくアリスだった。
「私も行くわ!」
「アリス!?」とエリアーナが振り返った。
「今決めた。海の向こうに何があるか、確かめたい。母様の研究も、グラウンドさんの記録も、ここで終わらせるにはもったいなさすぎる」
アリスの目には、迷いがなかった。母親譲りの、一度決めたら曲げない光だった。
「はぁ……行くと言ったら、聞かないでしょう、あなたは」
エリアーナは小さく息を吐き、それでもどこか誇らしげに娘を見た。
『補足します』とファーファが浮かび上がった。『南の大陸に関するデータは、チェロ様たちの世界視察で得られた断片的な記録のみです。位置がオーストラリアか、あるいはさらに南の氷の大陸か――正確な特定には至っていません』
「じゃあ、誰に聞けば分かるんですか?」
グラウンドが尋ねると、アリスが即答した。
「父――リュウガに聞きます。あの人は、この世界のあらゆる知識を持っているデータベースでもあるので」
「お父様、というと?」
「私の夫です。詳しい話は、また今度」
エリアーナは軽く流すように言ったが、その口元にはわずかな照れがあった。
「準備を整えます。あなたの意思は分かりましたが、まずリュウガ、父さんにもきちんと話を通してからです。娘が海の向こうに行くとなれば、あの人も黙っていないでしょうから」
「分かってるわよ」
その時、部屋の隅でチェロとセフィラが小声で囁き合っているのが聞こえた。
「――で、誰がお嬢様のお守りを?」
「わたくしは母様の護衛が本務ですので……」
「ええええ。では、わたしですか1?」
「ふふふ、セフィラ、あなたが適任だと思いますが……」
「え、待って、わたしそんな器用じゃ……」
「はぁ、わかったわ。他のメンバーにも確認しましょう。ここで2人だけで決める話でもありません」
チェロが冷静にそう収めると、セフィラは少し安堵したように肩の力を抜いた。
2人のやり取りに、アリスが呆れたように口を挟んだ。
「お守りって言い方やめてよ。同行者でしょ」
ゼノンがそのやり取りを黙って見ていたが、やがてぼそりと言った。
「……勝手に決めるなよ、そっちも」
「あら、嫌だった?」
「……そうは言ってない」
地図の南の余白に、幾つもの視線が同時に集まった。まだ何も描かれていない、広大な空白だった。
この日交わされた記録が、やがてエリアーナの理論の礎となり、彼女の技術思想の奥深くに組み込まれていくことになる。そしてその知見は形を変えながら、遠い未来――誰も名前を知らない場所で、再び目を覚ますことになる。だがそれを知る者は、この部屋には誰もいなかった。
「……にしても」
『グラウンド様とエリー様、悪筆同盟結成ですぉ』とファーファが続けた。
「――ははははは、否定はしません」
グラウンドが素直に認めると、エリアーナが小さく噴き出した。
「似た者同士かもしれませんね、私たち」
「……そうかもしれません」
窓の外では、この国の槌の音が、今日も絶え間なく響いていた。




