第六話:その女の名は
翌朝、グラウンドはゼノンを連れて、街の外れにある古い井戸のほとりに向かった。
昨夜の女から、指定された待ち合わせの場所だった。酒場ではなく、人目の少ないこの場所を選んだのは、あちらの側の判断だろう。
「本当に来るのか、その女は?」
「来るだろうな。あの目は、途中で諦める目じゃなかった」
言いながら、グラウンドは昨夜の追及を思い出していた。脚色にしては地味すぎる、生々しすぎる――その指摘は、的を外していなかった。
井戸の向こうに、人影が見えた。
昨夜の丸眼鏡の女を先頭に、4人の姿があった。金髪ショートボブのチェロ、銀髪のセフィラ――ここまでは見知った顔だ。だが、その後ろにもう2人、そして宙に浮く小さな銀色の球体が一つ、ふわふわと付き従っていた。
「あれは……何だ?」
ゼノンが目を細めて球体を見た。
「さあな。式神の類か、それとも別の生き物か」
柔らかな雰囲気を纏った女、髪を結い上げた女性、オルガというらしい、が、優雅に一礼した。
「初めまして。安らかな朝を。……昨夜の話、チェロとセフィラからお嬢様が聞き出してしまったようで。私もせがまれる形でご一緒しました」
「お嬢様って言い方、やめてよ」
その隣の若い娘が、涼しい顔で口を挟んだ。知的な光を宿した目で、興味深そうにこちらを見ている。
「私はアリス。母の話、昨日聞いてどうしても気になって。竜の国の話をする語り部がいるって、こんな面白いことないでしょ」
「面白いだけで来たのか?」
ゼノンが低い声で聞くと、アリスは肩をすくめた。
「それだけじゃ不満? 珍しい語り部がいるって聞いたら、誰だって会ってみたくなるでしょ」
遠慮のない口ぶりに、ゼノンは一瞬言葉に詰まり、それから小さく舌打ちのような息を吐いた。
「……変わってるな」
「よく言われるわ!」
球体が2人の間に割り込むように浮かび上がった。
『――解析中。ゼノン様、心拍数にわずかな変動。アリス様に対する警戒値は低め。これは友好的な反応と判断されます』
「勝手に解析しないで!」
「ファーファ、余計なことを言わない!」
アリスの抗議はスルーしたが、丸眼鏡の女軽くたしなめると、球体はしゅんと沈むように高度を落とした。
『……失礼しました』
グラウンドは軽く頭を下げた。
「昨夜はどうも。……して、今日はどういったご用件で?」
「単刀直入に伺います」
彼女が一歩前に出た。手帳は懐にしまわれたままだった。今日は記録のためではなく、確かめるために来たのだと、その仕草だけで分かった。
「――あなたが、昨日の童話の主人公その人、グラウンドさんですよね?」
名前を呼ばれた瞬間、グラウンドの表情がわずかに固まった。これまで何度もはぐらかしてきた問いだが、今日の響きは違う。もう逃げ場を残していない、確信に満ちた声だった。
しばらくの沈黙の後、グラウンドは小さく息を吐いた。
「……ええ。俺がグラウンドです」
認めた瞬間、井戸のほとりの空気がわずかに変わった。チェロとセフィラが、主の反応を待つように静かに控えている。オルガは優しい笑みを絶やさず、アリスは興味深そうに目を細めていた。
「やっぱり!!」
エリアーナは、静かにそう呟いてから、深く息を吸った。
「申し遅れました。エリアーナ・アルテミシアと申します。この国で、技術の研究をしています」
「エリアーナ……アルテミシアさん……?」
その名を口にした瞬間、グラウンドは思わず息を呑んだ。この国に留まって長いが、その名を知らない者はいない。スパナ一本で崩れかけた世界を立て直したという、あの英雄その人だった。酒場の与太話ではなく、この国そのものの礎を築いた人物が、今、目の前にいる。
「まさか……エリアーナ様、なんですか!? この国の技術顧問の!?」
「えっと、様はやめてください。もう随分昔の話です」
エリアーナは苦笑しながら手を振った。
『補足します』とファーファが再び浮かび上がった。『エリー様が「もう昔の話」とおっしゃるのは通算847回目です。ちなみに本人は未だに国の技術顧問筆頭ですぉ』
「ファーファ!」
「ははは、本当に賑やかなお仲間ですね」
グラウンドは思わず苦笑した。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
「あなたの話の中の観測データは、私が長年集めてきたものと、驚くほど一致しています。それも、私1人ではとても辿り着けなかった精度で」
エリアーナが手を上げると、ファーファが応じるように光を放ち、宙に小さな地図の投影を映し出した。北への経路、マナの濃度の分布、あの湖の安定点らしき印。
『提示します。エリー様の観測記録との一致率、92パーセント』とファーファが淡々と告げた。『一致しない8パーセントは、おそらくグラウンド様の記録の方が精度が高いです』
「……こんなことまでできるのか」
グラウンドは目を見張った。ゼノンも横で腕を組み、無言のまま投影を見つめている。
「私1人の観測では、ここまでの精度は絶対に出ません」とエリアーナは言った。「あなたの話は、脚色でも伝聞でもない。実際に、その場所に立った人間にしか語れないものです」
その言葉に、グラウンドは初めてまじまじと女の顔を見た。伝説の人物、という自己紹介は嘘ではなかったらしい。むしろ、想像していたよりずっと深いところで、この女は同じ謎を追いかけていた。
「あなたは、その……竜なんですよね?」
エリアーナは静かに、しかしはっきりと言った。
「隠さなくて大丈夫です。……この子たちも、驚きません」
「ええ、もちろん」とオルガが微笑んだ。「竜であろうと人であろうと、お腹が空くのは同じですもの。よろしければ後で温かいスープでも」
「面白い話だとは思ってたわ」とアリスが肩をすくめた。「竜が語り部やってるって、それだけで十分変わってるわよ」
ゼノンだけが、少し身構えるように一歩前に出た。だがグラウンドはそれを手で制した。
「……驚かれないんですね?」
「あなたたちのような方々がいることは、この国の上の方では、ずっと以前から知られています。一般の方には伏せていますが……」とエリアーナは言った。
「うちの娘たち――ルーテやハープが、世界中を歩き回って集めてきた情報の中に、竜の国の存在も含まれていました。ただ、正確な場所も、その暮らしぶりも、誰も知らなかった。それを、まさかこんな形でご本人から聞けるとは……」
「……そういうことでしたか」
グラウンドは小さく息を吐いた。長年隠してきたはずのものが、思っていたより早く、しかも自然な形で明かされていく。奇妙な安堵と、少しの拍子抜けが同時に胸を占めていた。
「……そうです。俺たちははるか遠くの地、竜の国の生まれです」
認めてしまえば、あとは早かった。長年1人で抱えてきた謎の答えが、目の前の女の中にもあった。
「では、俺の話の中で――マナの流れの正体について、あなたは何かご存知なんですか?」
「……はい」
エリアーナは頷いた。その目には、これまでの詮索めいた光ではなく、同じ探求者としての熱が宿っていた。
「私たちの調査が、ようやく同じ場所に辿り着いたようです。この国に来てから、ずっと探していたものが」
朝の光が、井戸のほとりに差し込んでいた。2000年以上をかけてすれ違ってきた竜の探求と、この土地に生きる人間の探求が、ようやく一つに重なった瞬間だった。




