第三話:旅立ちの契機と朝
リベルがグラウンドの調査室を訪ねてきたのは、姉弟の口論から数日後のことだった。
金色の髪を無造作に束ね、動きやすさだけを考えたような軽装で現れる。母のセフィラ譲りの奔放さを、そのまま体に纏っているような女だった。
「ねえ、外に行くつもりでしょ?」
軽い調子だったが、目は本気だった。
「じゃぁさ、うちのゼノンも連れてってあげてよ」
「……危ないかもしれませんよ」
「だから一緒に行ってほしいの。旅には慣れてるでしょ?」とリベルは言った。「あの子、外の世界を見たがってるし。それに、あなたの調査の役に立てると思う」
グラウンドが答えるより先に、部屋の隅からゼノンの声が飛んできた。
「もう決めてる。俺も行くぞ。母さんの許可は取ったんだから」
いつの間にか調査室に入り込んで、地図を眺めていたらしい。
「それは俺が決めることだ」
「じゃあ早く決めろよ」
「……なぜ俺が断れないんだよ」
ぼやきながらも、グラウンドは頷いていた。この甥っ子には、いつも押し切られる。
クロノスへの報告は、拍子抜けするほど短いものだった。事情を伝えると、クロノスはしばらく黙ったまま息子を見つめていた。長い沈黙の後、口を開いたのはひと言だけだった。
「……お前が決めたなら」
「止めないのか!?」
「止める理由がないからな」
それだけ言って、クロノスはまた黙り込んだ。父らしい言葉はそれきり出てこなかったが、息子はそれで10分そうだった。
「命令は聞け。それだけだ」
グラウンドがそう釘を刺すと、ゼノンは片方の眉を上げた。
「何でも聞くとは言っていない」
「お前の母親そっくりだな」
軽口を叩きながら、グラウンドは支度の段取りを頭の中で組み立て始めていた。
◇◆◇◆◇
旅立ちを控えたある晩、リベルがグラウンドだけを部屋の外に呼び出した。
「この子、あなたが一番信頼できる大人なの。それだけよ」
いつもの軽さが消え、静かな声だった。
「……それはなかなか重いですね」
「そうよ」
リベルは笑った。だがその笑みの奥に、母親の覚悟のようなものが滲んでいるのを、グラウンドは見て見ぬふりをした。
◇◆◇◆◇
旅立ちが近いという話は、あっという間に王宮中に広まった。あちこちの一族から「壮行の宴を」「見送りの列を」という声が上がったが、グラウンドはそのすべてを丁重に断った。
「大げさにすると、帰ってくる時も大げさになりますから」
そう言って、見送りは最小限にとどめてもらうことにした。
旅立ちの朝、竜の国の門の前に立ったのは、ごく近しい顔ぶれだけだった。
「またすぐ帰ってくるでしょ?」
ソイルの問いに、グラウンドは苦笑した。栗色の髪、丸眼鏡の奥の穏やかな目――若い頃はよく「テラ母様に生き写しだ」と言われた顔立ちが、年を重ねるごとにいっそう似てきている。
「どうでしょう。……それより姉さん、最近ますますテラ母様に似てきましたね」
「急に何よ!?」
「いえ、なんとなく……」
ソイルは怪訝そうな顔をしながらも、まんざらでもなさそうに眼鏡の位置を直した。
「とにかくマナの源流を見つけたら報告して」
シズクは短くそう言った。青みを帯びた長い髪を一つに結い、氷を思わせる涼やかな目元――数日前の口論の余韻は、まだ完全には消えていない。だが今朝の声には、弟の背を押すような響きが混じっていた。
「もちろんです」
ソイルはゼノンに向き直り、指を突きつけた。
「グラウンドの言うことを聞くのよ」
「なぜソイル伯母さんに言われないといけないんだよ」
「……この子、口が悪いわね。一体誰に似たのやら」
「そりゃ、リベルさんでしょう」
グラウンドが横から口を挟むと、ソイルは「あなたも大概よ」と言い返し、周りが小さく笑った。
そこへ、ふらりと現れた人影があった。フードを目深に被った旅装の女――クロノスの妹で、諸国を渡り歩く占い師のミスティだった。この人もゼノンの叔母の一人だった。
「あら、こんな朝早くに騒がしい」
「ミスティ姉さん!?」
ゼノンが声を上げると、ミスティはフードの下から片目だけを覗かせて笑った。
「2人とも、無事に帰ってくるわ。だけど――」
言葉を切って、グラウンドの顔をじっと見つめる。
「見つけるものは、探していたものと少し違う形をしている。心の準備だけはしておきなさいな」
「……それだけですか?」
「それだけよ。とりあえずありがたいご神託、わざわざ伝えに来たんだから、褒めてよね」
ミスティはそう言い残すと、来た時と同じようにふらりと去っていった。残された2人は顔を見合わせたが、深く考える間もなく、シズクが最後に声をかけた。
「ゼノン、気をつけて」
「帰り道が遠くなるかもしれません」
珍しく丁寧な言葉に、シズクは小さく頷いた。
「それでもいいわ。……ただし、必ず生きて帰りなさい」
「……はい」
◇◆◇◆◇
竜の王族が竜の国を包む結界を越えるのは、2000年ぶりのことと言われた。
門をくぐった瞬間、肌に刺さるような感覚が走る。
「……濃い。そして、流れている」
結界の内側とは、まるで違う質のマナだった。長年地図の上で追い続けてきたものが、初めて肌で確かめられる。
(この旅は、長くなりそうだ)
グラウンドはそう思いながら、自分の腹のあたりを一度だけ叩いた。この丸みも、着く頃には多少落ち着いているかもしれない――そんな軽口を、まだ自分の中だけで呟いていた。
だが、これはまだ始まりに過ぎない。地図によれば、真の異常地帯――マナの源流に近いとおぼしき土地は、ここから北へさらに数千キロも先にある。人間の国々、エルフの国々――竜の国を含めた連合の版図はそこまで安定している。危険が始まるのは、そのさらに外側だった。
「あの辺りは、確か――」
「そう、昔、魔族の国があった土地だ」
グラウンドが地図の一点を指でなぞりながら言った。
「30年前の戦争で、竜と人類の連合軍に滅ぼされたと聞いている。俺の親の世代の話だ」
「俺にとっては、爺様たちの時代の話だな」
ゼノンが言った。あの戦争のことは、幼い頃から折に触れて聞かされてきた。もっとも、爺様のヒカルは自分の武勇伝をほとんど語らない人だった。代わりに聞かされるのは、いつも婆様たち――ヴァルキリアやセフィラをはじめとする六龍姫の口からだ。同じ戦の話でも、語る者が変われば少しずつ肉付けが違っていた。
「今も連合が国土拡大のために手を入れている土地のはずだ。放置されているわけじゃない」
「なのに、マナの異常だけは誰も気づいてないのか」
「気づいていても、報告が上がってこないだけかもしれない。……行けば分かる」
「長い旅になるな」
ゼノンは笑った。
「望むところだ」
その夜、2人は結界の外で初めて星を見た。
「星の名前を知っているか?」
ゼノンが聞くと、グラウンドはいくつかを指さして教えた。
「あれは――」
教えながら、ふと思う。この夜の会話を、いつか別の誰かが繰り返すことになるとは、この時のグラウンドにはまだ知る由もなかった。
◇◆◇◆◇
語りが一区切りついたところで、セフィラがそわそわと体を揺らした。
「早く続きが聞きたいです! 北の異常地帯のくだり、資料でも読んだことがありますが……」
「セフィラ、おちつきなさい。任務中ですよ」
「……はわわ、す、すみません」
窘められてもなお、耳だけはグラウンドの声を追っている。丸眼鏡の女はその様子に小さく苦笑しながら、また手帳を構え直した。
「続けてください。お願いします」
グラウンドは頷き、酒を一口含んでから語りを再開した。




