第二話:20年
調査室の扉が、控えめな音を立てて開いた。
顔を出したのは、小さな影だった。まだ五つか六つの子供が、グラウンドの膝の高さから室内を覗き込んでいる。闇の色を帯びた黒髪と、どこか落ち着かない目つき――クロノスとリベルの息子、ゼノンだった。
「グラウンドおじさん、何してるの?」
「マナの地図を作っている」
「なんで?」
「おかしいからね」
「う~ん、どこが?」
「ここと、ここと――」
答えながら地図を指でなぞっていくと、気づけばゼノンが地図の上に身を乗り出し、あちこちを指さして質問攻めにしていた。
「これは何?」「これは?」「なんでこの色なの?」
「おいおい、触っちゃだめだ」
「なんで?」
「インクがにじむから」
グラウンドは短く息を吐いた。この子供に「なんで」と聞かれない日はない。父のクロノスは寡黙を絵に描いたような男だが、この息子は違う。好奇心だけは母のリベルにそっくりだった。
リベルが調査室に顔を出したのは、その少し後だった。
「この子、グラウンドのところばかり行くのよ」
傍らのクロノスは何も言わなかった。ただ、息子が懐いている相手を見て、わずかに目を細めただけだった。グラウンドにとって、ゼノンはいつの間にか甥っ子のような存在になっていた。断ることのできない、小さな来訪者。
◇◆◇◆◇
――それから十数年が過ぎた。
調査室の主は、40代になっていた。相変わらず机の上には地図が広げられている。だが、地図を覗き込む顔は、もう子供のものではなくなっていた。
「源流は結界の外にあるのは間違いない」
グラウンドは地図の余白を指でなぞりながら呟いた。
「でも外に出たことがない。竜の国は2000年、外界と隔離されていた。外のマナがどうなっているか、誰も知らない」
「なあ、グラウンドおじさん」
背後から声がした。振り返ると、ゼノンが立っていた。まだ10代の終わりだが、いつの間にかグラウンドより頭一つ分、背が高くなっている。
「行けばいいんじゃないか、外に」
「……小さかったお前が、今は俺より背が高いんだな」
「話をそらすなよ!」
ゼノンは口を尖らせながらも、机に手をついて地図を覗き込んだ。この目の輝かせ方だけは、幼い頃からずっと変わらない。
「俺、外の世界がどうなってるのか知りたい。おじさんが行くなら、俺も連れてってくれよ」
その素直な物言いに、グラウンドは思わず笑った。ちょうどそこへソイルが顔を出し、弟の姿を見て眉を上げた。
「あなた、もう四十よ」
「いやいや竜にとって四十は若いですよ」
ソイルは呆れたように肩をすくめただけで、それ以上は何も言わなかった。
「なあ、怖くないのか、外の世界は?」
グラウンドが尋ねると、ゼノンは目を輝かせて即答した。
「怖くない。むしろ面白そうだ。おじさんとなら、なおさら」
「……リベルの子だな」
「母さんの真似したつもりはない」
口ではそう言いながらも、耳が少し赤くなっている。この子はどこまでも母親似で、そして存外に素直だった。
◇◆◇◆◇
王宮への定期報告は、この10年、同じ結論をたどり続けていた。
「まだ結界の外の話ですか……」
シズクは書類から顔を上げず、静かに言った。
「はい」とグラウンドは頷いた。「国内の調査は、もう限界です。四つの拠点、地脈の乱れ、マナの偏在――どれだけ観測を重ねても、源流にはたどり着けません。答えは外にあります」
「その話、10年前から聞いているわよね?」
「10年経っても、答えは変わりませんので」
シズクはようやく顔を上げ、弟をまっすぐに見た。
「グラウンド。竜の力を持ってしても、結界の外に出て戻った者は1人もいないわ。2000年前、まだこの国が今の形になる前――何人もの竜が外を目指して、誰1人帰らなかった。あなたはそれを知っているはずよ」
「知っています。だからこそ、調べ尽くした上で行きたいんです」
「調べ尽くしても、外がどうなっているかは分からない。分からないから、外なのよ」
言葉が少しずつ硬くなっていく。ユリウスが書類をめくる手を止め、そっと2人を見守っていた。
「このままでは、マナの乱れの原因は永遠に分かりません。姉上もそれは分かっているはずです」
「分かっているから、慎重になれと言っているの」
「慎重にしていたら、何も進みません!」
珍しく声を荒げかけたグラウンドに、シズクは一瞬押し黙った。姉弟の間に、これまでにない緊張が走る。
「……今日はここまでにしましょう」
シズクは静かにそう言って、地図を片付けるよう促した。グラウンドも、それ以上は食い下がらなかった。だが、部屋を出る背中には、これまでとは違う、静かな決意のようなものが滲んでいた。
◇◆◇◆◇
「――マナが結界の外から来ている、という発想は、どこから?」
語りの切れ目で、丸眼鏡の女が手帳から顔を上げて聞いた。ただの合いの手にしては、目の据わり方が違う。
「続きを話せば分かります」
グラウンドはそう言って、酒をひとくち含んだ。女は少し不満げな顔をしたが、それ以上は聞かず、また手帳に向き直った。
入口では、セフィラが小声で「早く続きが聞きたいです」とチェロに耳打ちしている。
「セフィラ、静かに」
「……了解です、姉様」
その名を耳にした瞬間、グラウンドの手がわずかに止まった。
(……セフィラ、か)
偶然だろう。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。だが女の視線に気づいて、グラウンドはすぐに何でもない顔を作り、また語り始めた。




