第一話:その話を、もう一度
アステリアの酒場は、日が落ちてからが本番だった。
煤けた梁から吊るされたランプが揺れ、安酒と炙った肉の匂いが充満している。旅の商人、鉱夫、流れ者の傭兵――誰も彼もが安酒を片手に声を張り上げ、店の奥では楽士が調子外れの弦を鳴らしていた。その喧騒の中心に、ひときわ体格のいい男がいた。
「――そうして、竜の姫たちは和音を響かせた。世界を救ったのは剣でも魔法でもない、絆だったというわけだ」
男が両手を広げて話を締めくくると、囲んでいた客たちがどっと沸いた。誰かが「グラウンドの兄さん、今夜も上手いなあ!」と叫び、誰かが酒瓶を叩いて拍子を取る。男――グラウンドは満更でもなさそうに笑い、差し出された酒を一息に呷った。丸みを帯びた体つきに愛嬌のある笑顔がよく似合う、そういう男だった。
この店では、いつもこうだ。旅の道すがら小銭を稼ぐ手段として始めた語りが、いつの間にか常連の楽しみになっている。話す内容は決まって同じ、竜の国の物語だった。
喧騒が落ち着きかけた頃、人混みをかき分けて1人の女が近づいてきた。
年の頃は40代半ばだろうか。丸い眼鏡の奥の目は落ち着いていて、旅装というより研究者めいた身なりをしている。懐から覗く小さな手帳が、酒場には不釣り合いなほど几帳面な印象を与えていた。
入口には、黒のメイド服に身を包んだ2人が控えている。金髪のショートボブの女は腕を組んで店内に静かな視線を配り、隣の銀髪の女は鼻を小さくひくつかせていた。武骨な武具の類は何一つ見えない。給仕にでも紛れていそうな出で立ちだが、その立ち姿だけはどこか隙がなかった。
「……この店の肉、香ばしいですが火加減が甘いですね。ピッコ直伝の評価基準で言えば、星三つ中の二つといったところでしょうか」
「セフィラ、任務中です」
「……すみません、姉様」
2人のやり取りをよそに、丸眼鏡の女はグラウンドの前に立ち止まった。
「……その話、もう一度聞かせてもらえますか?」
グラウンドは酒瓶を置き、女の顔を見上げた。
「お客さん、この話は初めてで?」
「いえ」と女は少し微笑んだ。「有名なお話ですから。けれども、とても話の上手い語り部がいると聞いて。一度、直接聞いてみたかったんです」
当たり障りのない答えだった。だが、護衛を2人も連れて聞きに来る客など、そう多くはない。グラウンドは眼鏡の奥の目をちらりと見た。物腰は柔らかいが、こちらを観察するような、値踏みするような視線がわずかに滲んでいる。
「お仕事は?」
「王都で、技術関係の仕事をしていますの」
それ以上は名乗らなかった。グラウンドも深くは聞かなかった。この手の客は、これまでにも何度かいた。素性を隠したまま話を聞きたがる者たち――大抵は好奇心か、暇つぶしだ。今回もそうだろうと、グラウンドは自分に言い聞かせた。
「まあ、座ってください。長い話ですから」
女は礼を言って向かいの椅子に座った。懐の手帳を開き、いつでも書き留められるように構えている。その仕草だけが、ただの物好きな客とは少し違って見えた。
グラウンドは息を吐いて、語り始めることにした。
――竜の国を旅立って、まだそう遠くない頃の話をしよう。
◇◆◇◆◇
竜の国、王宮の一室。
この国を治める女王シズクは、書類机の向こうでグラウンドの報告に耳を傾けていた。まだ若いが、その佇まいには迷いがない。長きにわたる戦乱を収め、今は盟主として国をまとめている――竜の国の頂点に立つ女性だった。
そして、グラウンドにとっては異母姉にあたる。父を同じくし、幼い頃から共に育った姉弟だったが、今背負っているものの重さはまるで違う。それでもシズクは、この弟の調査報告をいつも自ら聞くことにしていた。
「南端の調査から戻りました。マナの偏在パターンが、以前よりはっきり見えてきています」
グラウンドは旅装を解く間もなく、羊皮紙の地図を広げた。赤い印が四つ、大陸の各地に散っている。
「四か所、ということね」
「はい。しかも、それぞれが独立して動いているわけではなさそうです。何か一つの意図が、四つの拠点を同時に操っている――そんな気配がします」
シズクは地図に目を落としたまま、しばらく黙っていた。傍らに控える宰相ユリウスが、書類をめくる手を止めて聞き入っている。
「源流は?」
「まだ掴めません。ただ」とグラウンドは地図の余白を指でなぞった。「四つの点を線で結ぶと、どれも同じ方向――もっと遠くを指しているように見えます」
「続けて調べてくれる?」
「もちろんです、姉上」
グラウンドは頷き、それから思い出したように付け加えた。
「あと、帰り道に旨いものを食べてきました! 南の市場で、辛味のある川魚の炙りがですね――!」
「……。ええっと、報告はそれで終わり?」
「はい、終わりです」
シズクは呆れたように眉を下げながらも、口元はどこか緩んでいた。長年見てきたグラウンドの調査報告は、いつもこの調子で締めくくられる。深刻な内容の後には、必ず旅先の食べ物の話が挟まる。困ったものだと思いながらも、それが弟らしいと分かっているからこそ、シズクはこの時間が嫌いではなかった。
国を治める女王と、諸国を漫遊する弟。立場は違っても、この報告の時間だけは、姉と弟の顔に戻れる数少ない時間だった。
◇◆◇◆◇
王宮の廊下で、ソイルが腕を組んで待ち構えていた。
「ねぇ、またすぐ旅に出るの?」
「調査がありますからね」
「……。ちゃんと食べてる?」
「食べてます。むしろ食べすぎてますよ、ははは」
「だから心配してるのよ……」
ソイルは弟の腹のあたりをじろりと見た。もともと恰幅のいい体つきだったが、旅から帰るたびに少しずつ丸みが増している気がする。だがグラウンド自身は気にした様子もなく、話題を変えるようにこう言った。
「そういえば、クロノスさん、最近王宮にいる時間が長いですね」
闇の血を引くクロノスも、ソイルやグラウンドと同じく異母きょうだいの1人だ。無口で、王宮にいることの方が珍しい男だった。
「リベルのおかげで落ち着いてきたのよ。あの人がちゃんと部屋にいるなんて、前は考えられなかったことだけど」
風の血を引くリベルは、クロノスの妻であり、こちらも同じ異母きょうだいとして育った1人だった。ソイルはそう言って、どこか楽しげに目を細めた。まだ何も形になっていない話――クロノスとリベルの間に育ちつつある小さな未来のことを、この時のグラウンドはまだ何一つ知らなかった。
「そのうち賑やかになるかもしれないわね、王宮も」
「……そうですねぇ」
深い意味もなく相槌を打ちながら、グラウンドは調査室へと歩き出した。
◇◆◇◆◇
夜、誰もいない調査室で、グラウンドは1人、地図と向き合っていた。
四つの赤い点。延ばした線が収束する先は、竜の国を囲む結界の、さらに外側だった。
「……外、か」
2000年、誰1人として踏み出したことのない場所。地図の余白は、そこで唐突に白くなっている。何が広がっているのか、誰も知らない。
マナの謎の答えは、まだ遠い。だが、確かにそこにあるという確信だけが、静かに胸の奥で根を張り始めていた。
グラウンドはランプの火を落とし、地図を丸めた。まだ何も始まっていない。だがこの夜の静けさが、長い旅の最初の一歩だったのだと、後になって思い返すことになる。




