第十二話:旅立ちの日
出発の朝、アステリアの港には潮の匂いが満ちていた。
見送りに集まったのは、屋敷にいる家族のほぼ全員だった。もっとも、ルーテ、ハープ、テューバ、クララの4人は、それぞれ別任務で王都を離れており、この場にはいない。出発前、アリスの手元には4人からの短い置き手紙が届いていた。
ルーテ、ハープ、テューバの3人は、それぞれ一言ずつ。「無理はしないでください」「……お気をつけて」「怪我、しないでね」。多くを語らないなりに、案じる気持ちと、それでも送り出そうとする気持ちが、短い文字の中ににじんでいた。
クララの一文だけは、少し毛色が違った。「お土産話、待っていますわ! できれば映像記録もお願いします!」。
係留されているのは、この国の技術を結集した外洋船だった。木造の船体に、マナを動力へ変換する機関が組み込まれ、帆走だけに頼らない航行が可能になっている。この国の技術が確立されてから積み重ねられてきた成果の一つだった。
もっとも、この後アリスたちが出会うことになる、砂の下に眠る銀白の母艦に比べれば、児戯にも等しい代物だったのだが、それを知る者はまだ誰もいない。
「思ったより、立派な船ですね」
グラウンドが船体を見上げて呟くと、エリアーナが誇らしげに頷いた。
「うちの技術院が総力を挙げて造ったの。海図もこちらで用意できる限りのものを積んである」
甲板で、エリアーナはアリスに小さな機体を差し出していた。人型には程遠い、シンプルな球形のコアに、精緻な意匠の外殻が施されている。
「これ、あなたのために作ったの」
「これは……?」
「まだ名前はないわ。あなたが名付けてあげて」
アリスはその機体を受け取り、しばらく黙って見つめた。シスターズとは明らかに設計思想が違う。戦闘に特化した無骨さではなく、どこか静謐で、長く寄り添うことを前提にしたような佇まいだった。
「記録と管理を重視して作ったの」とエリアーナが言った。「あなたが眠っている間もずっと記録し続けられるように。……そういう時が来るかもしれないから」
「母さま……」
「大丈夫。ただの、心配性の親心よ」
エリアーナは笑ってみせたが、その目の奥には隠しきれない不安が滲んでいた。
「セフィラ、戦闘はあなたに任せる。チェロ、アリスから目を離さないで。ヴィオラ、周辺警戒を怠らないで。何かあったらすぐ連絡しなさい」
矢継ぎ早に指示を出すエリアーナに、3人はそれぞれ答えた。
「かしこまりました、お母様」
「お任せください、エリー母様」
「もちろんですわ」
リュウガが最後にアリスの前に立った。
「南の大陸について、俺の知っている限りのことを話しておく」
「父さんはどこまで知ってるの?」
「残念ながら、詳細までは、な。ただ――何か大きなものが、あの土地に眠っているらしい、という記録の断片だけは掴んでいる。正体までは分からない」
「気をつけろってこと?」
「そうだ。何か見つけても、決して単独で触れるな。必ず報告してから動け」
「わかった!」
「……それと」
リュウガは一瞬、言葉を探すように黙った。父としての顔と、あらゆる知識を持つ者としての顔が、その一瞬だけ重なって見えた。
「気をつけて行け」
たったそれだけの一言だったが、アリスは小さく頷いた。
◇◆◇◆◇
少し離れた場所で、グラウンドとゼノンが向き合っていた。
「死ぬなよ」
グラウンドが言うと、ゼノンは鼻で笑った。
「竜はそう簡単に死なない」
「お前の母親みたいなことを言うな」
「……おじさんが父さんみたいなことを言うからだ」
久しぶりに聞く呼び方だった。旅の間ずっとそう呼んできたのに、いつからか互いに名前で呼び合うことも増えていた。それが今、また元に戻っている。
2人は同時に笑った。長い旅を共にしてきた師弟の、最後の軽口だった。
グラウンドの内心には、口にしない言葉があった。
(あの子に何かあったら、リベルになんて言えばいいか)
だが、それを言葉にすることはなかった。ただ黙って、ゼノンの肩を軽く叩いた。
「また会えるかわからない」とゼノンが言った。「でも、おじさんが教えてくれたマナの読み方は覚えている」
「……それでいい。しっかりやってこい」
2人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。旅を共にした年月が、すでにすべてを語っていた。
◇◆◇◆◇
出航の合図が鳴った。
船が港を離れていく。エリアーナ、リュウガ、そしてグラウンドが、岸壁に並んで小さくなっていく船を見送っていた。
「行っちゃいましたね」
「……ああ」
グラウンドは水平線に消えていく船影を、いつまでも眺めていた。ここから、物語の主軸がグラウンドからゼノンとアリスへと移っていくことを、この時のグラウンドはまだ知らなかった。
しばらくの沈黙の後、エリアーナが口を開いた。
「――ねえ、グラウンドさん」
「はい?」
「このあと、ご予定は?」
「いえ、特には……」
「なら、お祝いに行きませんか。あの子たちの旅立ちの、壮行会代わりに!」
「壮行会、ですか?」
「この街で一番美味しい店、知ってるの。研究漬けの毎日で、なかなか行く機会がなかったんだけど」
その時、港まで見送りに来ていたコルネとユーフィが、後ろでひそひそと話しているのが聞こえた。
「――ねぇねぇ、壮行会って、出発前に本人たちを主役にやるもんじゃないの?」
「エリーちゃん、絶対ただ飲みたいだけだよ」
「あーしもそう思う」
エリアーナがぴたりと固まった。
「――聞こえてるわよ」
「聞こえるように言いましたわ」とオルガが優雅に微笑みながら言った。
「あなたも同意見なの!?」
「あら、否定する理由がありませんわ」
グラウンドが思わず噴き出した。
「……いや、いいじゃないですか。本人たちがいない壮行会も、それはそれで」
「ほら、グラウンドさんもこう言ってるし」
「屁理屈ですわね」とオルガが穏やかに、しかしはっきりと言った。
リュウガが2人を見て、小さく肩をすくめた。
「俺も行くぞ」
「あんたはデータベースとして留守番でしょ」
「不合理だ。俺にも味覚のシミュレーションくらいは……」
「はいはい、一緒に行きましょ」
海風が、グラウンドの丸みを帯びた頬を撫でていった。水平線の彼方に消えた船影を思いながらも、その足取りは、思いのほか軽かった。




