第十一話:出発前夜
市場に出かけたあの日から、もうすぐ1年が経とうとしていた。
その1年で、2人の間には数えきれないほどの日々が積み重なっていた。
季節が変わるたびに、市場へ通う回数も増えていった。値切り交渉はいつしかアリスの十八番になり、ゼノンは横で相場を耳打ちするだけの役に落ち着いた。稽古と称して剣の型を教わる日もあれば、屋敷の裏庭で他愛もない話をするだけの夜もあった。
「――今日も、あの2人揃って出かけましたわね」
チェロが窓辺で呟くたび、セフィラが小さく端末に何かを記録し、ヴィオラが扇子の陰で笑みを深める。そんな光景も、いつの間にか屋敷の日常になっていた。
ある夏の夜には、王都で催された祭りに2人で出かけたこともあった。人混みに紛れて、屋台の灯りの下で肩を並べて歩く時間は、市場デートの日とはまた違う穏やかさがあった。
「――去年の今頃は、まだ護衛って呼ばれてたのにね」
アリスがぽつりと言うと、ゼノンは少し間を置いてから答えた。
「今は、何だと思ってるんだ?」
「さあ、何だろうね~」
はぐらかすように笑うアリスに、ゼノンは小さく息を吐いただけだった。それでも、繋いだ手をほどく気配はなかった。
船の準備が整い、装備の点検も終わり、出発は明日と決まった。屋敷のあちこちに積み上げられた荷物の山は、この1年間の慌ただしさそのものだった。
「――以上で、荷物の最終確認を終わります」
チェロが手元の目録を閉じた。
「明日は夜明け前に出発します。今夜は早めに休んでください、アリス様」
「分かってる。ありがとう、チェロ」
「わたしたちの分は、もう積み込み終わってます」とセフィラが端末を仕舞いながら言った。「あとは、アリス様の私物だけです」
「――アリス様の部屋の前を通ったら、まだ荷造りの途中でしたわよ」とヴィオラが扇子越しに微笑んだ。「早くなさらないと、夜が明けてしまいますわ」
「わ、分かってるって。今行く」
急かされるようにアリスは自室へ戻り、荷物を詰め終えた頃には、すでに夜も更けていた。
窓の外は、静かな闇に包まれていた。
◇◆◇◆◇
荷造りを終えたアリスは、しばらく部屋の中で立ち尽くしていた。
明日には、この屋敷を出る。母様とも、父様とも、シスターズとも、しばらく離れる。分かっていたことのはずなのに、いざその日が来ると、胸の奥がざわついた。
――でも、1人じゃない。
アリスは静かに部屋を出て、廊下の先へと向かった。
ゼノンの部屋の前に立つと、灯りが漏れていた。まだ起きているらしい。
「――入るよ」
返事を待たず、扉を開けた。
ゼノンは荷物の点検をしていたのか、床に武具を並べたまま、こちらを見た。
「――お前も、まだ起きてたのか?」
「うん。……ちょっと、話したくて」
「明日は早い。寝ておいた方がーー」
「聞いて!」
アリスは遮るように、はっきりと言った。
ゼノンが動きを止めた。
部屋の中に、しばらく沈黙が満ちた。
「――この1年、ずっと一緒にいた」
アリスは静かに、それでいてまっすぐに切り出した。
「市場に行った日も、高台で話した夜も、ずっと覚えてる。……ゼノンのこと、ちゃんと知りたい。これまでの300年も、これからも」
「……」
「はっきり言うね。私、ゼノンのことが好き」
その一言に、ゼノンの肩が、わずかに強張った。
「――色々知ったら、後悔するかもしれない」
低い声だった。逃げるための言葉ではなく、本気で案じているのだと、アリスには分かった。
「でも後悔するかどうかは、私が決める」
アリスは一歩、ゼノンに近づいた。
「お爺様のことも、旅先で失った人たちのことも、全部聞いた。それでも、離れる気なんてない。むしろ、その分だけ――もっと知りたいって思った」
「……」
ゼノンは何も言わなかった。ただ、しばらくアリスの顔を見つめたまま、動かなかった。
やがて、ゆっくりと距離を詰めたのは、ゼノンの方だった。
無言のまま、アリスの手を取る。指先が、いつもより熱かった。
「――ゼノン?」
「……何も言うな。今は」
その声は、かすかに震えていた。300年生きてきた男の、精一杯の返答だった。
ゼノンはそのまま、アリスをそっと引き寄せた。抱きしめる、というにはぎこちない仕草だったが、確かにそこには、隠しきれない想いがあった。
「――言葉にできなくて、悪い」
「いいよ。今は、これで」
アリスは小さく笑って、ゼノンの背に手を回した。
しばらくして、体を離したアリスが、ふと思い出したように言った。
「――ねえ、ゼノン」
「……何だ」
「今、『お兄ちゃん』って呼ばなかったな、と思ったでしょ?」
ゼノンが、わずかに目を見開いた。
「――言われてみれば」
「なんでだろ。呼ぼうとしたら、なんか、違う気がして」
アリスは自分でも不思議そうに、小さく笑った。
「これから、ゼノンって呼ぶことの方が増えるかも。いいでしょ?」
「……好きにしろ」
さっきと同じ言葉だったが、その響きは、どこか違って聞こえた。
窓の外では、明日への夜が静かに更けていく。まだ言葉にならない約束が、確かにそこに結ばれた夜だった。
――そして、静かに夜は明けていく。旅立ちの朝が、すぐそこまで来ていた。




