第十話:300年の孤独
市場に出かけた日から、数週間が経った。
出発の準備は着実に進んでいた。船の申請は無事に女王セーラの認可が下り、装備の調達も大詰めに入っている。屋敷の空気は、慌ただしさと落ち着きの間を行き来していた。
その日の夕食の席で、エリアーナがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、オーボエから手紙が来てたわ。国境沿いの部隊指揮、無事に交代してきたって」
「相変わらず忙しそうだね」
アリスが答えると、エリアーナは微笑んだ。
「将軍職なんて、暇なわけないでしょう。旦那のカインも騎士団の顧問として今回の遠征には同行してるみたいだし、2人にとっては珍しく夫婦水入らずの旅ね」
「うちで唯一の既婚者夫婦だもんね」
「まったく、あの子だけは私に似ず堅実だったのよねえ……」
エリアーナがしみじみ呟くのに、隣でリュウガが小さく頷いた。誰も否定しなかった。
食事が終わり、皆がそれぞれの持ち場に散っていく中、チェロが静かにアリスへ耳打ちした。
「――アリス様。今夜だけは、私たちは近づかないようにしますわ」
「え?」
「詳しくは申しません。ただ、そういう日だと思っただけです」
意味深に言い残して、チェロは一礼して去っていった。アリスはしばらく首を傾げていたが、深くは考えなかった。
◇◆◇◆◇
夜、屋敷の裏手から続く坂道を登ると、市街を見下ろせる高台に出る。
アリスがそこに着いた時、ゼノンはすでに石段に腰を下ろし、夜の街を眺めていた。
「――ここにいたんだ」
「風にあたりに来ただけだ」
「私も混ぜて」
返事を待たず、アリスはゼノンの隣に腰を下ろした。眼下には、灯りの灯った王都アステリアが、静かに広がっている。
しばらく、どちらも何も言わなかった。ただ夜風が吹き、遠くの喧騒がかすかに届くだけだった。
「――ねえ、ゼノン」
アリスがふと口を開いた。
「これまで、どれだけの人を見送ってきたの?」
ゼノンの視線が、わずかに揺れた。
「……急に、何だ」
「ずっと気になってた。300年も生きてたら、それだけ多くの人と出会って、それだけ多くの人を見送ってきたんだろうなって」
ゼノンは答えなかった。夜の街を見つめたまま、長い沈黙が流れた。
「――言いたくないなら、いい」
「……いや」
ゼノンが静かに息を吐いた。
「――お前になら、話してもいい気がする」
その声には、これまで聞いたことのない重さがあった。
「勘違いするなよ。家族を失ったことは、ほとんどない。婆様たちは竜だ。爺様と結ばれてから何100年経っても、誰1人欠けてない。父さんも母さんも、多分俺よりずっと長く生きる。竜の寿命は400年から600年くらいある。しかも、そのうち八割近くは若いままだ。俺の300年なんて、まだ大したことない部類に入る」
「想像できないわ……。……。ほとんどってことは、じゃあ、誰かを見送ったの?」
ゼノンは少し黙り込んでから、静かに口を開いた。
「――爺様だ。ヒカル・クレイヴ」
「あ……」
「童話で知ってるだろ。爺様はもともと、ただの人間だった。6人の婆様たちと結ばれて、竜の国の王になった。多少は強化できたみたいだが、それでも、人間の血までは変えられなかった。いや、あえて変えなかったらしい。……享年、102歳だった」
ゼノンの声が、わずかに低くなった。
「俺が生まれた時、爺様はもう50を超えてた。だから物心ついた頃には、すでにいい歳の爺さんだったよ。……覚えてる。爺様は、自分の武勇伝なんて一度も語らなかった。婆様たちがその手の話を始めるたびに、居心地悪そうに窓の外を見てた。俺が『爺様は本当にすごかったの?』って聞いても、いつも『さあな』とはぐらかすだけだった。その代わり――」
ゼノンは、少しだけ声を和らげた。
「よく、湖に釣りに連れて行かれた。何を話すでもなく、2人で並んで座って、竿を垂らしてるだけだ。魚が釣れても釣れなくても、爺様は満足そうだった。帰り際、決まって頭を撫でられた。それだけの記憶なのに、なぜかよく覚えてる」
「…………」
「爺様と最後に会ったのは、旅に出る朝だった。門の前で、皆が見送ってくれた中の1人だった。……その朝も、多くを語らなかった。ただ、『気をつけて行け』それだけだった」
ゼノンは一度、言葉を切った。
「旅に出てしばらく経った頃――報せが届いた。爺様が逝った、と」
「…………」
「看取れなかった。竜の力で報告のやり取りはしてたのに、その報せだけは、間に合わなかった。俺が知った時には、もう全部終わってた」
ゼノンの声が、わずかに低くなった。
「竜からすれば、あっという間の話だ。婆様たちは今も、誰1人見た目としては歳を取らない。俺の父さんも母さんも、伯母さんたちも、変わらない姿のままだ。……なのに、爺様だけが、いなくなった。しかも、俺がいない間に……」
アリスは何も言わず、ただ黙って聞いていた。
「旅の途中でも、似たようなことが何度もあった。何十年か一緒にいた人間が、ある日いなくなる。宿の女将、共に旅をした剣士、俺に読み書きを教えてくれた学者――みんな、いつか死んだ。当たり前だ。俺だけが、時間の外にいる」
ゼノンは淡々と語り続けた。
「そのたびに、爺様のことを思い出した」
彼は短く息を吐いた。
「家族は、多分もう誰も失わない。でも、それ以外の誰かと深く関わるたびに、いつかまた同じことを繰り返す。だったら、最初から近づかない方がいい――そう思うようになった」
その言葉には、諦めとも覚悟ともつかない、静かな重みがあった。アリスはしばらく黙って、その横顔を見つめていた。
「それでも……」
やがて、アリスが口を開いた。
「私たちとは、一緒に旅をするって決めてくれた」
ゼノンが、初めてアリスの方を見た。
「――お前は、少し違う」
「違うって?」
ゼノンは何も答えなかった。ただ、視線を逸らし、また夜の街へと目を戻した。
「――今のは、忘れてくれ」
誤魔化すように呟いたゼノンに、アリスは静かに、しかしはっきりと返した。
「忘れないわ」
その一言に、ゼノンは何も言い返せなかった。
夜風が、2人の間を吹き抜けていった。星の光が、王都アステリアの灯りと混ざり合って揺れている。まだ言葉にならない何かが、確かにそこに横たわっていた。
「――寒くないか?」
しばらくして、ゼノンがぽつりと言った。
「別に。それより、まだ話してよ。旅の道連れの話とか、宿の女将さんの話とか」
「……気が向いたらな」
「今、向いてるでしょ」
「……少しだけだ」
ゼノンは小さく息を吐き、また語り始めた。今度の声は、さっきより幾分か穏やかだった。
高台の下、王都の灯りは変わらず瞬き続けていた。誰にも知られないまま、静かに、確かに、何かが動き始めた夜だった。




