第九話:市場デートと恋路応援団
リュウガの書斎には、羊皮紙と光の投影が幾重にも重なっていた。
机の端では、グラウンドが山積みの記録を仕分けながら、時折欠伸を噛み殺している。
「――関連データの解析、車両の整備、装備の調達。それらの手続きをすべてを合わせると、出発までに数ヶ月から半年はかかる」
淡々とした声で告げるリュウガに、アリスは机に身を乗り出した。
「半年!? そんなに?」
「見通しが甘いよりはいい。中途半端な準備で海を渡らせるつもりはない」
「それに」とグラウンドが手を止めずに口を挟んだ。
「船を出すにも護衛をつけるにも、この王国の許可がいる。今の女王陛下は、その辺りに厳しい方だからな」
「女王陛下って、セーラ様だよね?」
「ええ」とエリアーナが頷いた。
「戴冠されてからは、対外的な渡航は逐一、正式な申請が必要になったの。付き合いが長いとはいえ、そこは私情を挟まない人だから」
「じゃあ、今日はそれで王宮に?」
「そう。船の手配と、護衛の兵権の借用と……申請書だけで、正直うんざりする量なの」
エリアーナは分厚い書類の束を軽く叩いて、深く息を吐いた。
「アリス」
エリアーナが書類を片手に、静かに話を向けた。
「待つ間くらい、普通に過ごしなさい。そうねぇ、市場に買い出しに行ってきてくれないかしら。日用品と、旅の携行食の下見も兼ねて」
「……市場? 母さまも私も、しょっちゅう行ってるところじゃない」
アリスは眉を寄せた。屋敷から歩いてすぐの距離にある市場は、今更下見をするような場所ではなかった。
「知ってる場所だからこそ、行く価値があるの。旅の携行食は、勝手知ったる店の目利きが役に立つのよ」
「それ、こじつけでしょ?」
「あら、バレた?」
悪びれもせず、エリアーナはにっこり笑った。
「でも本当よ。しばらくは私もリュウガも、セーラ様への申請でかかりきりになる。あなたがここで待ちくたびれて、うろうろされる方が正直迷惑なの」
「はっきり言うね……」
「正直な母親でごめんなさいね」
「そもそも、私1人で行けばいいでしょ」
「アルテミシアの家の娘をさすがに1人で行かせるわけないでしょう!」
エリアーナは扇のように書類を広げ、その陰でわずかに口の端を上げた。
「ゼノン、あなたが護衛について行きなさいな」
部屋の隅で置物のように黙っていたゼノンが、片方の眉を上げた。
「――なぜ俺なんだ!?」
「適任でしょう。強いし、土地勘もある」
「土地勘なら、グラウンドおじさんの方が……」
「俺は今、リュウガの手伝いで手が離せないから、頼むわ~」
グラウンドは即答し、書類の山にわざとらしく視線を落とした。
理由としては、どれも筋が通っていた。だが、部屋の隅からエリアーナに向けられた視線――チェロが小さく頷き、セフィラが親指を立てかけて慌てて引っ込めるのを、ゼノンは見逃さなかった。
「……お前ら、絶対何か企んでるだろ!?」
「気のせいですわ……」
ヴィオラが扇子を広げ、優雅に目を逸らした。気のせいだと言う声の速さが、かえって何よりの証拠だった。
「もう、仕方ないなぁ。じゃ、決まりだね。諦めて、行こっか、ゼノンお兄ちゃん」
「――その呼び方、まだ続けるのか?」
「だって、決定事項でしょ?」
「……好きにしろ」
ゼノンは短く言って、先に玄関へと歩き出した。その背中が、ほんの少しだけ早足だったことに、アリスは気づかないふりをした。
「行くぞ、アリス」
「ちょっと、ゼノン待って、荷物、荷物~」
「早くしろ」
「急かすくせに待つし! どっちなのよ!!」
言い合いながら2人が玄関を出ていくのを見送って、エリアーナは扇の陰で小さく笑った。
◇◆◇◆◇
2人が出て行った直後、屋敷の一室では静かな、しかし熾烈な争いが始まっていた。
「――本日の観測任務、立候補を募ります」
チェロが淡々と切り出すと、セフィラとヴィオラが同時に手を挙げた。
「わたしが適任です。索敵と記録、両方こなせます」
「あら、わたくしの方が人混みへの潜伏には向いていてよ。気配の消し方が違いますもの」
「――では、通常通りジャンケンで」
チェロが右手を掲げると、2人も慣れた様子で構えた。
『あ、それ聞こえてるよ。あたしも交ぜてよ、ライブ映えするじゃん!』
不意に、通信端末からボーンの声が割り込んだ。世界視察で各地を飛び回っているはずの彼女が、抜け目なくこの騒ぎを聞きつけたらしい。
『無理でしょう、ボーン姉様。今どこにいるんですか?』
セフィラが呆れたように返す。
『あううう、南方の島。たしかに今から戻ったら夕方どころか明日になっちゃうよ!』
「では棄権ですわね」とヴィオラが涼しい声で言った。
『えー! じゃあせめて実況の権利ちょうだい!』
「うるさいから却下です」とチェロが即答した。
別の回線から、今度はオルガの落ち着いた声が滑り込んできた。
『ふふ、若い2人の初々しい様子、わたくしも遠くから見守らせていただきますわね。……ちなみにコルネとユーフィも、隣で盛大に囃し立てておりますわよ』
『ボクも交ぜてー! 絶対エモい展開になるじゃん、これ!』とコルネの弾んだ声。
『あーしも混ぜてー! って、コルネと台詞かぶった!』とユーフィが続けた。
「――皆様、業務中です」
チェロの一声で、通信は一斉に静まった。もっとも完全に切れたわけではなく、細い音量でざわめきだけが残り続けている。聞き耳を立てている気配は、消えていなかった。
「では、あらためて」
チェロが右手を掲げ直した。
「最初はグー」 「じゃんけん」 「――ぽん」
勝ったのはチェロとセフィラだった。ヴィオラは悔しそうに扇子を握りしめたが、諦めは早かった。
「仕方ありませんわ。……ただし、わたくしも周辺警戒という名目で、こっそりついて行かせていただきますけれど」
「えええ! それ、参加してるのと同じでは?」とセフィラが半眼で突っ込んだ。
「屁理屈はチェロ姉様譲りですわよ、セフィラ」
「わたし、そんなこと言った覚えは……」
言い合いながらも、3人はすでに外套を羽織り、追跡の準備を整えていた。
「――で、あなたたち。まさかついて行かないわよね?」
戸口から顔を出したエリアーナに、3人は揃って目を逸らした。
「わたくしは念のための周辺警戒に」
「わたしも情報収集の一環として」
「わたくしは……野暮ですけれど、まあ、社会見学ということで」
「はいはい、勝手にしなさい。こっそり護衛よろしくね」
エリアーナは呆れながらも、追及はしなかった。娘たちがこうして楽しそうにしているのを見るのは、決して嫌いではなかった。
◇◆◇◆◇
王都アステリアの市場は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
「これ、いくら?」
アリスが乾燥果物の露店で指をさすと、店主は愛想よく値段を告げた。妥当な相場より、明らかに高い。
「え、それ高すぎない?」
「お嬢さん、これは南方から仕入れた特級品でね」
「特級品って言われても……」
アリスが言葉に詰まっていると、隣からゼノンが静かに口を挟んだ。
「その品種なら、収穫期はひと月前だ。今の時期に特級を名乗るなら、香りがもっと強い!」
店主の笑顔が、わずかに固まった。
「――お客さん、詳しいね!?」
「そこそこ長く生きてる、からな」
「300年分の相場観だもんね~」とアリスが小声で茶化すと、ゼノンは無表情のまま「うるさい」とだけ返した。結局、値段は最初の三割引まで下がった。
「すごいと思ってるんだよ。ゼノンって意外と頼りになるじゃん」
「意外とは余計だ!」
「褒めてるんだけど~」
歩きながら、屋台の炙り肉の匂いに2人の足が自然と止まった。
「食べる?」
「別に、腹が減ってるわけじゃ……」
「顔がそう言ってないよ」
「……一つだけだ」
差し出された串を受け取ったゼノンが、無言でかぶりつく様子に、アリスは思わず吹き出した。
「なによ、その顔。美味しいなら美味しいって言えばいいのに!」
「不味くはない」
「なにそれ、褒め言葉?」
「お前の解釈に任せる」
そうやってじゃれ合いながら人混みを抜けていく途中、荷馬車が急に通りを塞ぎ、押し寄せる人波にアリスの体が呑まれかけた。
「――アリス」
気づいた時には、ゼノンの手が、しっかりとアリスの手首を掴んでいた。
「危ない!」
「……あ!」
短い言葉だけが交わされ、2人はそのまま、いつの間にか手を繋いだ形で人混みを抜けた。どちらから離すでもなく、しばらくそのままだった。
「――もう平気だよ」
アリスが小さく言うと、ゼノンははっとしたように手を離した。
「――悪い」
「別に。……助かったわ」
それだけのやり取りだったが、2人の間に、これまでとは少し違う空気が生まれていた。
◇◆◇◆◇
その一部始終を、路地の陰から三対の目が見つめていた。
「――今の、進展として何パーセント評価すべきでしょうか?」
セフィラが真剣な顔で端末を構えた。
「手を繋いだ時間、推定4秒。心拍数のデータは取れませんが、アリス様の頬の赤みから逆算すると――」
「セフィラ、野暮ですわよ」
ヴィオラが扇子でセフィラの端末をぱたりと下ろさせた。
「こういうものは、黙って見守るものです。数値化するものではありませんわ」
「では姉様は数値化なさらないんですか?」
「――と、当然ですわ」
そう言いながら、ヴィオラの視線は誰よりも食い入るように2人へ注がれていた。
「2人とも」とチェロが静かに口を挟んだ。「はしゃぎすぎです。観察――もとい、護衛任務中ですよ」
「チェロ姉様も、さっき拳を握っていましたわよね?」
「……気のせいです」
3人が小声で言い合っている間にも、アリスとゼノンは何事もなかったかのように次の店へと歩いていく。その背中を追いながら、チェロは小さく息を吐いた。
「――エリー様には、いずれ報告しないといけませんね」
「もちろんです。詳細な記録をつけています」
「わたくしも動画で!」
「……まあ、それは、いいでしょう」
チェロにしては珍しく、咎める言葉が出てこなかった。
◇◆◇◆◇
買い出しを終えた頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
「思ったより時間かかったね」
「値切り交渉に時間がかかりすぎただけだ」
「ゼノンのせいでもあるでしょ」
「……否定はしない」
大通りを並んで歩きながら、2人はしばらく黙っていた。橙色の光が石畳を照らし、行き交う人々の影を長く伸ばしている。何かを話すでもなく、ただ隣にいる。それだけで10分な時間だった。
「――ゼノン」
「なんだ」
「今日はありがとう!」
「別に、大したことはしていない」
「ううん」
アリスは少し歩調を緩め、隣を見上げた。
「一緒にいて、楽しかった!」
ゼノンは何も答えなかった。ただ、いつもより長く、アリスの横顔を見つめていた。
その沈黙は、気まずさとは違う種類のものだった。まだ言葉にはならない何かが、確かにそこにあった。
◇◆◇◆◇
屋敷に戻ると、エリアーナが窓辺で2人の帰りを待っていた。買い物袋を提げて歩いてくる娘と、その隣を歩くゼノンの姿を見て、小さく目を細める。
「――まあ、あの子たちが楽しそうならいいけど」
背後で、チェロたちが興奮気味に報告書らしきものを広げているのが聞こえた。
「本日の観測記録、詳細をご報告いたします」
「わたくしの撮影データもございます。編集版と未編集版、どちらから」
「……両方、後で見せなさい」
エリアーナは苦笑しながらそう答えた。
かつては「エリー様親衛隊」として自分を守ることだけが役目だった娘たちが、今では別の仕事に生きがいを見出している。それがいつからだったのか、正確には思い出せない。だが、決して悪い変化ではなかった。
窓の外では、夕焼けが少しずつ藍色に溶けていく。
出発までの半年間は、まだ始まったばかりだった。




