第七章 夕立のあとに座る人
夕立のあとの縁側には、降る前とも、降っている最中とも違う静けさがあるのかもしれない。
雨を待つあいだ、人はまだ何かを自分で持っている。
雨音の中では、その半分ほどを外へ預けることができる。
そして雨が過ぎたあと、残った半分はどうなるのだろう。
消えるわけではない。
けれど、さっきまでと同じ重さでもない。
濡れた葉の匂い。
軒先から落ちきらない雫。
少し明るくなりかけた空。
そうしたものの中で、人はもう一度だけ、自分の中に戻ってきたものを座り直すのだろう。
第十七作の終盤に来て、湊はその“雨のあとに座る時間”こそ、縁側の最も深い働きなのではないかと思い始めていた。
翌朝、春口は朝から不安定な空だった。
晴れ間はある。
けれど、その晴れ間は長く続く顔をしていない。
雲が早く流れ、光の白さも定まらない。
こういう日は、夕立が来るとしても、来ないとしても、縁側の板は早い時間から少し低い。
天気は、降るか降らないかだけではない。
その迷い方まで、人の気配に触れてくるのだろう。
昼前、近所の女がひとつ包みを持って寄った。
用事は簡単だったが、汐里は帳場で受け取らず、縁側へ近い位置へ通した。
女は座って、庭の空を見る。
まだ雨は来ない。
けれど「来るなら、早いほうがいいね」と小さく言った。
その言い方は、空について言っているようでいて、それだけではなかった。
来るなら早いほうがいい。
そう言いたくなるものを、人はときどき自分の中にも持っているのだろう。
縁側では、そういう言葉が天気へまぎれて自然に落ちるのかもしれなかった。
「今の」
湊が言う。
「ええ」
汐里も頷く。
「縁側の言葉でしたね」
「そうですね」
「どうして、ここだとああいう言い方になるんでしょう」
彼女は少し考えてから答えた。
「空のことを言ってる形を借りて」
「ええ」
「自分の中のことも少し置けるからだと思います」
「……」
「部屋の中だと、もう少し“自分の話”になりすぎる」
「はい」
「でも縁側だと、まだ天気のほうへ半分預けられる」
「かなり本質的です」
湊は静かに言った。
その午後、雨は思っていたより急に来た。
最初は庭の葉に散るように当たり、すぐあとで軒先の音が揃う。
今回は細い雨ではなかった。
夕立らしく、来るときには一気に来る。
縁側の外の景色が、数分のうちに別の庭になった。
石は深く濡れ、葉の色も一段落ちる。
人の声がそこで少し止まるのは、たぶん自然なことなのだろう。
ちょうど居合わせた近所の女も、もう何も言わなかった。
汐里も急かさない。
ただ、湯呑みを縁側の内側へ少しだけ寄せる。
雨が近づきすぎないように。
けれど、雨音は十分聞こえるように。
その小さな加減に、もう彼女の“縁側をあずかる手つき”がはっきり出ている気がした。
しばらくして、夕立は少し弱まった。
空はまだ明るくならない。
だが、音の厚みが変わる。
その変化と一緒に、女の肩もほんの少しだけ下がった。
彼女は雨の庭を見ながら、「これで少し楽になるかもしれないね」と言った。
何が、とは言わない。
それで十分だった。
雨のあとに座る人は、いつもそうなのかもしれない。
全部を説明しなくても、少し軽くなったことだけが分かればよいのだろう。
「今のも」
湊が言う。
「ええ」
汐里は低く頷く。
「雨のあとでしたね」
「そうですね」
「どう違いますか」
「降る前や降ってるときは」
彼女は縁側の板を見ながら言った。
「まだ、天気のほうへ預けてる感じが強いですけど」
「はい」
「あとになると」
「……」
「返ってきたものを、自分のところへ座らせ直してる感じがします」
「かなり、第十七作ですね」
湊は言った。
そのとおりなのだろう。
雨は持っていくだけではない。
少し持ってくれたあとで、別の重さにして返してくる。
縁側は、その返ってきたものを人が座り直す場所なのだ。
だから“夕立のあとに座る人”という姿が、この巻ではとても大事なのかもしれなかった。
昼過ぎ、篠原が持ってきたのは、澄江の古い走り書きだった。
紙の端に、ごく短くこうある。
――夕立のあとは、すぐ部屋へ入れないほうがよい人がいる。
――雨に持ってもらったものが、まだ縁側で座り直していないから。
――その人は、もう少し庭を見てからのほうが暮らしへ戻りやすい。
「これですね」
湊が言う。
「ええ」
篠原が頷く。
「かなり重要です」
「座り直していない」
汐里が読み上げる。
「すごいですね」
「そうですね」
湊も頷いた。
澄江は、やはり雨のあとを急がなかったのだろう。
持ってもらったものがある。
けれど、それをすぐ部屋へ持ち込ませない。
縁側で、庭を見て、匂いを受けて、音の薄くなったあとの空気を吸って、それからようやく暮らしへ戻す。
春口の宿らしい、非常に細やかな順番だと思えた。
「お母さん」
汐里が低く言う。
「ええ」
「ここでも、やっぱり急がないんですね」
「かなり」
篠原が答えた。
「雨が終わったからといって」
「はい」
「人まで終わったことにはしない」
「そうですね」
その言葉に、湊は深く頷いた。
春口のやさしさは、いつもその点にあるのだろう。
出来事が終わっても、人のほうはまだ少し続いている。
雨もまた同じで、上がったから終わりではない。
縁側は、その“まだ少し続いているもの”を置いておける場所なのだ。
午後、湊は一人で縁側に座り、父のことを考えた。
雨宿りをし、少し持たなくてよくなり、肩が下がる父。
そのあと、すぐには立たず、縁側にもう少しだけ座っていたことがあっただろうか。
もしそうなら、その人はたしかに“雨のあとに座る人”だったのだろう。
それは何かを決めるための時間ではない。
ただ、返ってきた自分の重さを、もう一度自分のところへ置き直すための時間。
そう思えるだけで、父はまた一段、出来事の中の人ではなく、時間をかけて日々へ戻る人として近づく気がした。
夕方、空は少しずつ晴れ始めた。
庭の濡れた葉に明るさが戻り、縁側の板にも白さが戻る。
だが汐里は、障子をすぐには大きく開けなかった。
まだ、夕立のあとの静けさを急に明るくしすぎないほうがよいのだろう。
「開けないんですね」
湊が言う。
「はい」
彼女が答える。
「どうして」
「今日は」
彼女は庭を見ながら言う。
「雨のあとに座る時間を、もう少し残したいので」
「……」
「明るくしすぎると、すぐ“終わった感じ”がしてしまうから」
「かなり細やかですね」
湊が笑うと、汐里も少し笑った。
「でも、縁側ってそういう場所なんだなって、だんだん分かってきたんです」
「かなり進んでいますね」
そう言うと、彼女は少し照れたように、それでも確かな目で頷いた。
彼女はもう、天気が来る前だけではなく、過ぎたあと人がどこまで座っていればよいかまで見始めているのだろう。
その夜、ノートにはこう書いた。
――夕立のあとは、すぐ部屋へ戻らないほうがよい人がいる。
――雨に少し持ってもらったものが、まだ縁側で座り直していないから。
――澄江は、その“雨のあとに座る時間”を急がせなかった。
――父にもまた、雨宿りのあと、すぐには立たず、返ってきた自分の重さをもう一度置き直すように縁側へ座った時間があったのかもしれない。
――第十七作は、夕立が過ぎたあとに始まる静かな戻り方を描く巻になっていくのだろう。




