第八章 晴れ間を置く場所
夕立のあとに戻ってくる明るさは、昼の光とは少し違う。
同じ庭を照らしていても、同じ葉を白く浮かべていても、雨の前の明るさや、真昼のただ高い光とは質が違うのだろう。
ひと雨が通ったあと、空は軽くなる。
葉は濡れ、石はまだ深い色を残している。
その上へ差し直す光には、どこか“通り過ぎたもののあと”が混じる。
だから人もまた、その明るさの中では、単純に晴れた気持ちにはならないのかもしれなかった。
少し持たなくてよくなったもの。
少し戻ってきた重さ。
それらを抱えたまま、それでも前より軽い顔で座る。
縁側とは、そういう“晴れ間を少し置く場所”なのだろうと、湊は思い始めていた。
翌朝、春口はきれいに晴れていた。
昨日の夕立が嘘のように、空は高い。
けれど庭にはまだその名残がある。
葉の先のわずかな艶。
石の色の深まり。
土の匂いのやわらかな残り。
縁側の板は乾いているが、まったく昨日と無関係な白さではない。
その“雨のあとを含んだ晴れ”が、いかにも第十七作の終盤らしく思えた。
人もまたきっと、何かが過ぎたあとで、完全に無傷の明るさへ戻るわけではないのだろう。
少し過ぎたものを含んだまま、晴れ間の中へ座る。
縁側は、そのための場所なのかもしれなかった。
朝のうち、近所の女が顔を出した。
昨日、夕立の前に「来るなら早いほうがいいね」と言っていた女だった。
今日は用事を済ませたあと、自分から縁側のほうを見た。
汐里は何も言わず、そのまま板の手前へ座る位置を残す。
女は庭の濡れの残りを見て、それから「昨日より、少し楽だね」と言った。
何が、と訊く必要はなかった。
空のことでもあり、自分のことでもある。
縁側では、そういう曖昧な言葉がいちばん自然に落ちるのだろう。
「今の」
湊が言う。
「ええ」
汐里も頷く。
「縁側の晴れ間でしたね」
「そうですね」
「どう違いますか」
彼女は少し考えてから答えた。
「雨の前は、まだ預ける感じでした」
「ええ」
「雨のあとすぐは、戻ってきたものを座らせる感じ」
「はい」
「でも今日は」
「……」
「少し軽くなったまま、庭を見ていられる」
「かなり本質的です」
湊は静かに言った。
その整理で、縁側の時間がようやく最後までつながった気がした。
まだ降らない空へ半分預ける。
雨音に少し持ってもらう。
雨のあとの匂いで戻る。
そして晴れ間の中で、前より少し軽いまま座る。
夕立の縁側とは、その全体の順番を受ける場所なのだろう。
昼前、篠原が持ってきたのは、また澄江の短い走り書きだった。
そこには、簡潔にこう記されていた。
――夕立のあとの晴れ間は、すぐ片づけないほうがよい。
――人も庭も、まだ少し濡れている。
――縁側に明るさを少し置いてからのほうが、次の暮らしへ戻りやすい。
「これですね」
湊が言う。
「ええ」
篠原が頷く。
「かなり終盤の言葉です」
「明るさを少し置いてから」
汐里が読み上げる。
「すごいですね」
「そうですね」
湊も頷いた。
澄江は、雨が終わって晴れたからといって、すぐに何もかもを次へ進める人ではなかったのだろう。
縁側に明るさを少し置く。
人にも庭にも、その明るさをひと呼吸ぶん受けさせる。
それからようやく、茶の間や帳場や町のほうへ戻していく。
春口の宿らしい、とても静かな順番だと思えた。
「お母さん」
汐里が低く言う。
「ええ」
「晴れたあとまで、急がせなかったんですね」
「かなり」
篠原が答えた。
「夕立は、降る前も、降っているあいだも、降ったあとも」
「はい」
「全部少しずつ人を変えるものだったんでしょう」
「そうですね」
その言葉で、第十七作の核がはっきりした。
天気は出来事ではない。
順番なのだ。
人の気持ちや声や肩や背中に、少しずつ触れながら移っていく順番。
縁側は、その全体を引き受ける場所だったのだろう。
午後、湊は一人で縁側に座り、父のことを考えた。
雨宿りをしていた人。
雨音に少し持ってもらった人。
雨のあとにもう一度座り直した人。
そして今、晴れ間の中で少し軽くなった庭を見ている人。
もしそんな時間があったなら、父はきっと何も解決していなかった。
けれど、昨日までより少し軽い肩で、今日の暮らしへ戻ることはできたのかもしれない。
その程度の変化。
けれど人は、その程度の変化に支えられて日々を続けるのだろう。
そう思えるようになったこと自体が、父を見直す大きな一歩なのかもしれなかった。
夕方近く、汐里は縁側の障子を少しだけ広く開けた。
昼よりも、庭の明るさを多く入れる。
今日はもう予感のための低さより、過ぎた雨のあとの晴れ間を少し部屋へ置いておくほうがよいのだろう。
「開けるんですね」
湊が言う。
「はい」
彼女が答える。
「どうして」
「今日は」
彼女は庭の葉を見ながら言う。
「雨が終わったあとの明るさを、少しだけ中へ持っていったほうが」
「ええ」
「暮らしに戻りやすい気がするので」
「かなり細やかですね」
湊が笑うと、汐里も少し笑った。
「でも、縁側ってきっとそういう場所なんですよね」
「そうですね」
「外をそのまま入れるんじゃなくて」
「はい」
「その日の天気のあとを、ちょうどいいぶんだけ渡す」
「かなり」
湊は頷いた。
彼女はもう、ここまで来ている。
雨の前、雨の最中、雨のあと、そのどの縁側を人に渡すかまで、自分で決められる人へ。
夜、ノートにはこう書いた。
――夕立のあとの晴れ間は、すぐ片づけないほうがよい。
――人も庭も、まだ少し濡れているから。
――縁側に明るさを少し置いてからのほうが、暮らしへ戻りやすい。
――澄江は、その順番を知っていた。
――父にもまた、何も解決しないまま、それでも少し軽くなった肩で晴れ間の庭を見た時間があったのかもしれない。
――第十七作は、天気が人に触れたあと、その人をどう日々へ返すかを描く巻なのだろう。




