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潮待ちのレール ― 夕立の縁側 ―  作者: たむ


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第六章 縁側をあずかる娘

 縁側を拭くことと、縁側をあずかることもまた、少し違うのだろう。


 板を乾かす。

 雨のしぶきの跡を見て、濡れの深いところを拭き分ける。

 軒から落ちた雫の線を確かめ、庭側の汚れを取る。

 それらはもちろん大事だ。

 縁側は人の足にも目にも気持ちよくなければならない。

 けれど第十七作のここまでを通って見えてきたのは、それだけでは足りないということだった。

 雨の前にどのくらい外を近くするか。

 雨音が来たあと、どこまで人に持たせずにいられるか。

 雨のあとの匂いを、部屋へどれだけ連れていくか。

 その日の天気と人の気配に合わせて、外と内のあいだの濃さを決めること。

 それができて初めて、縁側は“あずかられる場所”になるのだろう。

 そして汐里は、いままさにそこへ足を入れ始めているように見えた。


 翌朝、春口は晴れていた。

 だが空の青さは、前日の雨を忘れきってはいない。

 庭の葉には乾いた艶と、わずかな湿りの名残が一緒にある。

 縁側の板も、今日は明るい。

 それでも真夏の板のように軽くはない。

 夕立を一度知った板の明るさ、とでも言えばよいのかもしれなかった。

 こういう日は、外を完全に切るより、少しだけ近くしておいたほうが人に合うのだろう。

 汐里はきっと、そういう加減を見始めている。


 朝食のあと、彼女は縁側へ出て、まず何もせず板の上へ立った。

 庭の葉を見、軒先の乾き方を見、障子の開け幅を確かめる。

 それから板を拭く。

 ただ掃除しているのではない。

 今日の縁側の近さを、自分で決めている手つきだった。


「今日は」

 湊が言う。

「ええ」

「少し開いてますね」

「はい」

 汐里は障子の端に手をかけたまま答える。

「どうしてですか」

「昨日の雨のあとが」

「ええ」

「まだ少し残っているので」

「……」

「今日は、外を切りすぎないほうがいい気がするんです」

「なるほど」

「匂いも、風も、少しだけ」

「人の近くに置いておく」

「そうです」

「かなり大事ですね」

 湊は静かに言った。


 その判断は、いかにも第十七作らしかった。

 昨日の雨はもう過ぎている。

 だが、過ぎたからといって完全に終わるわけではない。

 人の中にはまだ少し残っているかもしれないし、庭にも板にもその名残がある。

 縁側をあずかるとは、その残りを見て、今日はどのくらい外を近くするかを決めることなのだろう。


 午前のうち、近所の若い母親が子どもを連れて上がった。

 用事は短い。

 だが、その顔にはまだ昨日の雨の疲れのようなものが少し残っている。

 汐里はすぐ茶の間へは入れず、まず縁側の手前へ通した。

 子どもは濡れの残る庭を見て「まだきらきらしてる」と言う。

 母親はそれを聞いて、小さく笑った。

 それだけで、来たときより肩が少しやわらぐ。

 今日は、たぶんそれで十分なのだろう。


「今の」

 湊が言う。

「ええ」

 汐里も頷く。

「今日は縁側が先でしたね」

「そうですね」

「どうして」

「昨日の雨が」

 彼女は庭を見ながら言う。

「まだその人の中にも少しある気がしたので」

「ええ」

「先に外の続きに触れたほうが」

「部屋へ入りやすい」

「はい」

「かなり、第十七作ですね」

 湊が言うと、汐里は小さく笑った。

「本当に」

 彼女はもう、縁側を“外に近い場所”としてではなく、“天気の続きに少し触れてから部屋へ入るための場所”として使い始めているのだろう。


 昼前、篠原が来ると、縁側の開き方を見てすぐ「今日は戻しすぎない日なんですね」と言った。

 汐里は少し驚いて、それから笑う。


「分かりますか」

「ええ」

 篠原が答える。

「雨は終わっているが」

「はい」

「人の中ではまだ少し終わりきっていない」

「……」

「そういう日の縁側の開き方です」

「かなり大きい調整ですね」

 湊が言うと、篠原は静かに頷いた。

「第十六作で茶の間の日々への戻し方を知り」

「ええ」

「第十七作では、その前に天気をどう受け直させるかまで扱い始めている」

「そうですね」

 その言葉どおりなのだろう。

 汐里はもう、宿の中だけを見ている人ではない。

 外の天気が人の気持ちへどう触れ、そのあと部屋へどう入っていくかまで見始めている。

 それは宿の主として、かなり深い成熟なのかもしれなかった。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「はい」

「前は、縁側って」

「ええ」

「ただ庭を見る場所くらいに思っていました」

「そうでしたね」

「でも今は」

「今は?」

「庭を見るというより」

「ええ」

「外の天気が人にどう触れてるかを見る場所なんだなって」

「……」

「それに合わせて、部屋へ入れるか、もう少し外に近くしておくかを決める」

「かなり本質的です」

 湊ははっきり答えた。

 それは大きな変化だった。

 場所をそのまま受け取るのではない。

 その場所が人にどう働いているかを見て、その日の使い方を決める。

 汐里は、もうそこへ来ているのだろう。


 午後、湊は一人で縁側に座り、澄江のことを思っていた。

 澄江はたぶん、毎日この板の明るさや匂いや音を見て、人がどのくらい外を近くしてよいかを決めていたのだろう。

 雨の前。

 雨の最中。

 雨のあと。

 そのどれも同じ縁側ではない。

 だからこそ人もまた、同じようには座らない。

 澄江は、その違いを知る人だったのかもしれなかった。


 そこでまた、父のことが浮かんだ。

 雨宿りをしていた人。

 雨音に少し持ってもらった人。

 雨のあとの匂いで戻りかけた人。

 その父が、こうした縁側に“ちょうどよく近づけられて”いたとしたら。

 言葉をかけられすぎず、放っておかれすぎず、ただ天気の近さをその日のぶんだけ与えられていたとしたら。

 その人はきっと、思っていたよりずっと春口の宿に助けられていたのだろう。

 そう思えるだけで、父はまた一段、責めるより先に受け止められる人になっていく気がした。


 夕方近く、空はまた少し白く曇った。

 大きな雨になるほどではないが、風が湿る。

 汐里はその変化を見ると、障子を一枚ぶんだけ狭めた。

 今日は、外を開きすぎるより、予感だけを少し近くしておくほうがよいのだろう。


「閉めるんですね」

 湊が言う。

「はい」

 彼女が答える。

「どうして」

「また少し来そうですけど」

「ええ」

「今日は、まだ降る前のほうを長くしたい気がするんです」

「……」

「音まで入れるほどじゃないけど」

「湿りや低い明るさは残す」

「そうです」

「かなり細やかですね」

「でも」

 彼女は縁側の板を見ながら言う。

「最近、縁側ってそういう場所なんだなって分かってきたんです」

「かなり進んでいますね」

 湊が言うと、汐里は少し照れたように、それでも確かな顔で頷いた。


 その夜、ノートにはこう書いた。


 ――縁側を拭くことと、縁側をあずかることは違う。

 ――縁側をあずかるとは、その日の天気が人の中へどこまで入っているかを見て、外をどれだけ近くするかを決めることなのだろう。

 ――澄江はそれを知っていた。

 ――父にもまた、その日のぶんだけちょうどよく天気に触れさせてもらった時間があったのかもしれない。

 ――汐里はいま、宿の中の場所を守る人から、天気と人のあいだの濃さまで扱える人になり始めている。

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