第五章 雨のあとの匂い
雨が過ぎたあと、最初に戻ってくるのは明るさではなく、匂いのほうなのかもしれない。
空が晴れるには少し時間がかかる。
庭の葉から雫が落ちきるのにも時間がかかる。
だが匂いは、雨が弱まったころにはもう変わり始めている。
濡れた板の近くの木の匂い。
土のやわらいだ匂い。
葉の青さが少し深くなった匂い。
それらが縁側へ寄ってくると、人はまだ雨の中にいながら、もう次の時間へ少し足をかけ始めるのだろう。
第十七作のここまで来て、湊はようやく、その“雨のあとの匂い”が人の沈黙や背中の戻り方にどう働くかを見始めていた。
翌朝、春口は昨夜の雨を薄く残していた。
空は明るい。
だが完全な晴れではない。
庭の葉にはまだ小さな滴が残り、縁側の外の石もところどころ色を深くしている。
板の内側は乾いているが、その乾き方にも昨日の湿りが少し残っていた。
こういう朝の縁側は、雨を待つ場所というより、雨を通ったあとの外の気配を人の近くへ戻す場所なのだろうと思えた。
音よりも匂いが先に来る。
そして匂いは、言葉より先に人の肩や息へ届くのかもしれなかった。
朝のうち、近所の老婦が寄った。
用事は簡単なものだったが、汐里はすぐには茶の間へ入れず、まず縁側へ通した。
老婦は板の手前へ腰を下ろし、濡れた庭を見て、ひとつ息をした。
それから「雨のあとは、草の匂いが近いね」と言った。
その言葉は、天気の話でありながら、それだけではなかった。
雨のあとの匂いが、人を“また今日へ戻る前の静かなところ”へ一度だけ連れていくのだろう。
縁側は、そのための場でもあるのかもしれなかった。
「今の」
湊が言う。
「ええ」
汐里も頷く。
「縁側のあとの言葉でしたね」
「そうですね」
「どう違いましたか」
彼女は少し考えてから答えた。
「雨の前の縁側だと」
「ええ」
「まだ何かを預ける感じが強かったですけど」
「はい」
「雨のあとは」
「……」
「戻ってきた外の気配を、少し身体へ入れ直す感じがします」
「かなり本質的です」
湊は静かに言った。
その整理で、縁側の時間がさらに立体になった。
雨の前は、まだ来ていないものへ自分の半分を預ける。
雨が来れば、少し持たなくてよくなる。
そして雨のあとには、匂いとなって戻ってきた外を、もう一度自分の中へ入れ直す。
縁側は、天気の変わり目を何度も人の近くで受け渡しているのだろう。
昼前、篠原が持ってきたのは、澄江のごく短い覚え書きだった。
湿りで少し滲んだ字に、こんなふうにある。
――雨のあとの縁側は、匂いで人を戻す。
――音のときほど黙りは深くない。
――だが、息が少しやわらぐ。
――そういう日は、茶を急がない。
「これですね」
湊が言う。
「ええ」
篠原が頷く。
「かなり大事です」
「匂いで人を戻す」
汐里が読み上げる。
「すごいですね」
「そうですね」
湊も頷いた。
澄江は、雨音だけではなく、そのあとの匂いもまた人の時間に働くものとして見ていたのだろう。
音は少し持たなくてよくする。
匂いは少し戻す。
春口の宿のやさしさは、そうした微妙な段階の違いまで見て成り立っていたのかもしれなかった。
「お母さん」
汐里が低く言う。
「ええ」
「“茶を急がない”って」
「かなり茶の間につながりますね」
「はい」
「縁側のあと、すぐ部屋へ戻すんじゃなくて」
「匂いが身体に入る時間を少し置く」
「そういうことなんでしょうね」
その言葉に、篠原も静かに頷いた。
縁側は単独の場所ではない。
茶の間や庭や廊下とつながりながら、人を少しずつ日々へ返していく。
雨のあとの匂いがある日は、その返し方もまた変わるのだろう。
午後、湊は一人で縁側に座った。
庭の土の匂いが、昨日よりはっきり分かる。
葉の青さも、乾いた日より少し濃い。
その匂いの中にいると、気持ちが前へ出るというより、少し落ち着いて身体へ戻ってくる感じがある。
なるほどと思う。
雨音が“預ける”なら、雨のあとの匂いは“戻る”のだろう。
縁側とは、そうして外と内のあいだで人の重さを少しずつ受け渡す場所なのかもしれなかった。
そこで父のことを考えた。
雨宿りをしていた人。
雨音に少し持ってもらい、肩がわずかに下がる人。
そのあと縁側に残った匂いを吸い込みながら、また暮らしへ戻るための息をし直したことがあっただろうか。
もしそうなら、父はただ雨を避けていたのではない。
雨の前、雨の最中、雨のあと、その順番の中で少しずつ自分へ戻っていたのだろう。
そう思えるだけで、父はまた一段、出来事より生活に近い人として見えてくる気がした。
夕方近く、若い男が再び宿へ顔を出した。
昨日、雨宿りをしていた男だった。
今日は用件を済ませてから帰るつもりらしいが、縁側の近くで少し立ち止まり、「昨日の雨、ありがたかったです」とだけ言った。
その言い方には、礼以上のものがあった。
雨そのものに対してなのか、縁側に対してなのか、宿に対してなのかは曖昧だ。
だが、春口の場所というのはきっとそういう曖昧さごと人を支えているのだろう。
「今のも」
湊が言う。
「ええ」
汐里が頷く。
「どう聞こえましたか」
「昨日の続きを」
彼女は縁側の板を見ながら言う。
「今日まで持ってきた言葉みたいでした」
「……」
「雨のときはまだ言わなくてよくて」
「はい」
「匂いが戻って、ようやく言える」
「かなり、第十七作ですね」
湊は静かに言った。
その発見もまた大きかった。
縁側の時間は、一日では終わらないことがある。
雨音に持ってもらい、匂いで戻り、次の日にようやく一言になる。
澄江はきっと、その遅さまで知っていたのだろう。
宿のやさしさは、いつも即座の変化ではなく、少しあとでやってくる言葉や肩の緩みを待てるところにあるのだ。
夕方、汐里は縁側の板を拭きながら、外の匂いがまだ少し残るように障子を完全には閉めなかった。
それを見て、湊は訊いた。
「閉めきらないんですね」
「はい」
「どうして」
「今日は」
彼女は庭を見ながら言う。
「雨のあとの匂いが、まだ少しあったほうが」
「ええ」
「部屋へ戻る人にも合う気がするので」
「かなり細やかですね」
「でも」
彼女は小さく笑った。
「最近、そういう違いが少し分かるんです」
「かなり進んでいますね」
湊が言うと、汐里は少し照れたように、それでも確かな顔で頷いた。
彼女はもう、縁側をただ外に近い場所としてではなく、天気の前後で人の戻り方が変わる場所として扱い始めているのだろう。
その夜、ノートにはこう書いた。
――雨のあとの縁側は、匂いで人を戻す。
――音のときほど深くはないが、息が少しやわらぐ。
――澄江は、その日は茶を急がず、部屋へ戻す順番も少し遅くしていたのだろう。
――父にもまた、雨音に持ってもらったあと、濡れた庭の匂いで少しずつ自分へ戻る時間があったのかもしれない。
――第十七作は、天気のあとに戻ってくる外の気配が、人をどう日々へ返すかを描く巻になっていくのだろう。




