第4話「味が足りない?」前編
昼。
「今日の昼はラーメンがいい!」
奏の一言で、雄一は鉢王子商店街のはずれにある「大黒軒」へ向かうことになった。
「なんでそんな急に」
「今、ラーメンの口になった」
「店の修理予約より優先される口って何だよ」
「口は急に来るからね」
ガラス戸。赤い暖簾。少し油の染みた壁。入口横には、いつ貼ったのか分からない中華そばの写真。
古針時計店から歩いて5分。
子供の頃、雄一は父に連れられて何度か来たことがある。
昼時だから客はいる。
ただ、昔みたいに外まで並んでいる感じではない。
カウンターに並んで座り、雄一と奏はラーメンを啜っていた。
ズズッ。
ズズズッ。
麺は悪くない。
具も普通。
醤油の香りもちゃんとする。
けれど、何かが足りない。
雄一はレンゲでスープを飲んで、少し眉を寄せた。
「……前、もっと美味かった気がする」
隣で奏もスープを飲んだ。
目を細める。
「んー……薄いというか、途中がない」
「ラーメンに途中ってあるのか」
「あるよ。今、2番のサビ前が抜けてる」
「急に音楽番組みたいにするな」
奏はもう一度スープを飲む。
今度はレンゲを置いた。
カウンターの向こうで、店主がこちらを見る。
60代くらい。白いタオルを頭に巻いた、いつもの疲れた顔の店主だった。
「すみません。何か変でした?」
「いや、まずいとかじゃないです」
雄一は慌てて言った。
「ただ、昔食べた時と少し違う気がして」
店主は苦笑した。
「昔かぁ。そう言われると弱いですね」
奏は厨房の奥を見ている。
寸胴。
弱い火。
湯気は出ている。
でも、店全体がどこか急いでいるように見えた。
「時間、足りてない」
店主が目を瞬かせる。
「時間?」
「スープが、早く終わるのを嫌がってる」
「スープが?」
雄一は小さく咳払いした。
「すみません。この人、たまに食材と会話します」
「しないよ。失礼だなぁ」
「今してただろ」
店主は困ったように笑う。
「まあ……最近、昔ほど長く炊けてないのはありますね。材料もガス代も上がってるし、客足も前ほどじゃないんで」
タオルで首を拭く。
「ちょっとずつ仕込みを短くしてるんです。工夫っていうか、まあ、無理しないように」
奏は黙って聞いていた。
客が減る。
疲れる。
早く終わらせたくなる。
仕込みを短くする。
味が浅くなる。
さらに客が減る。
それは、悪いスパイラルだった。
奏は小さく言う。
「閉店側に引っ張られてる」
雄一は顔をしかめた。
「閉店側って何だよ」
「悪い時ってさ、店、終わる方が早くなるんだよ」
「縁起でもないことを店内で言うな」
「でもスープは必死に嫌がってる」
「だからスープを擬人化するな」
奏はそれ以上説明しなかった。
そのままラーメンを食べ終え、2人は店を出た。
昼の光なのに、少しだけ影が長い気がした。
店の前で奏は白いリュックを下ろし、中から白いガジェットポーチを取り出す。
妙に丁寧な手つきだった。
ファスナーを開ける。
雄一は思わず立ち止まる。
「お前、ガジェット系YouTuberか?」
「精密機器だからね」
「普段の生活もそのくらい丁寧にできないのか」
「生活は防水じゃないから」
「何言ってんだ」
中から例の黒い置き時計が出てきた。
艶のない黒。
小さな文字盤。
上部のボタン。
昼光の中で、それだけ少し浮いて見える。
奏は嫌そうに眉を寄せた。
「何か起こるかな?と思って。やっぱ黒だと気持ち悪いなぁ。今度塗ろうかな」
「良いのかそれ」
「白の方がリュックに馴染むし」
「オーパーツを雑貨扱いするな」
その時。
奏のポケットの懐中時計と、黒い置き時計の針が共鳴するかのように一度だけ、不自然に跳ねた。
カチ。
商店街の音が消えた。
車の音。
自動ドアの電子音。
遠くのスマホ通知。
全部が、一瞬でなくなる。
雄一は息を止めた。
「……は?」
光が変わる。
看板が消える。
舗装の色が古くなる。
電線が低くなる。
目の前に、木造の古い店先が現れた。
赤い暖簾。
丸い郵便ポスト。
低い軒先。
壁には、少し曲がった手書きのメニュー。
ラーメン120円。
味噌ラーメン150円。
冷麺150円。
その横に、「水はご自分で」と書かれた札が下がっている。
雄一は固まった。
「……どこだここ!?」
奏も少しだけ驚いた顔で周囲を見る。
「んー。たぶん、煮込み時間の方に引っ張られた」
「その説明で納得できるやついるか?」
雄一はそう言いながら、周囲を見回した。
商店街なのに、音が違う。
車の走る音は遠く、代わりに自転車のベルと、どこかの家から流れるラジオの声が聞こえる。
店先には木箱に入った空き瓶が積まれ、軒下では水を撒いた跡がまだ黒く濡れていた。
さっきまで見えていたコンビニの看板も、自動販売機もない。
スマホを見る。
圏外。
「圏外っていうか、圏がないだろこれ……」
「圏?」
「今はそこから説明しない」
その中で、奏だけが妙に白い。
白いジャージ。
銀色の髪。
青い目。
白いリュック。
昭和の夕方に、そこだけ現代の切り抜きみたいに浮いている。
最初に気づいたのは、店先でキャッチボールをしていた子供だった。
「おねーちゃん、髪白い!」
その声に、近くにいた別の子供も振り返る。
「外人?」
奏は自分の銀髪を指でくるっと巻いた。
「んー。失敗した綿菓子みたいな色だからね」
「分かるようで分からない説明すんな」
雄一は頭を抱えた。
だが、それどころではなかった。
店の中から、湯気が流れてくる。
現代の大黒軒で嗅いだものより、ずっと濃い。
醤油と脂と、長く火にかけた骨の匂い。
腹に来る匂いだった。
雄一は思わず店内を覗く。
若い男が、寸胴の前で必死に働いていた。
白いシャツの袖をまくり、額に汗を浮かべ、長い柄杓でスープをかき混ぜている。
雄一は、その横顔を見て息を止めた。
似ている。
今の大黒軒の店主に。
ただし、目の鋭さも、肩の張り方も、今よりずっと若い。
「あれ、若い頃の店長さんじゃない?」
奏が小さく言った。
いつもの調子に近い声だった。
でも、指先だけが少し白いリュックの肩紐を握っている。
雄一は返事をしようとして、できなかった。
タイムリープ。
そう言ってしまえば一言で済む。
でも実際に目の前の景色が昭和40年代になってみると、頭の中はそんなに便利に整理されない。
ラーメン120円。
圏外のスマホ。
木箱の空き瓶。
子供の声。
現代にはない湯気。
冗談にしては細かすぎる。
夢にしては、腹が減りすぎる。
「……いや、待て」
雄一は額を押さえた。
「待って何が変わるの?」
「変わらないけど、待たせろ。人間には整理する時間が要る」
「うん。時間は大事だね」
「今それを作品テーマみたいに言うな」
寸胴の前の若い男は、そんな2人に気づかない。
まだ若く、不器用で、焦っている。
火加減を見る目も、湯気の向こうの表情も、どこか急いでいた。
奥から、師匠らしい男の怒鳴り声が飛ぶ。
「火ぃ落とすな!」
「ラーメンは待ってくれねえんだよ!」
若い男が背筋を伸ばす。
「はいっ!」
寸胴が鳴る。
ぐつぐつ。
ぐつぐつ。
湯気が濃い。
重い。
現代の大黒軒とはまるで違う。
そこには、時間そのものが溶け込んでいるようだった。
奏が湯気を見つめる。
そして、小さく言う。
「……これだ」




