表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
結界が解けるまで三日~公爵夫人、最後の仕事~  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 それでも私は出ていく

 眠れない夜は慣れている。けれど、理由が違った。


 十二年間の眠れない夜は、結界の更新があったからだ。地下室に降りて、血を流して、術式を書く。それが済めば眠れた。身体が疲れて、考える余裕もなかったから。


 今夜は違う。地下室に降りる理由がない。術式を書く必要がない。なのに目が冴えている。


 天井を見つめた。寝室の天井には細かい彫刻が施されている。ヴァルターの母、先代公爵夫人の趣味だという。林檎の木と鳥の意匠。十二年間毎晩見てきた天井なのに、彫刻の鳥が何の鳥か考えたことがなかった。


 鷹だろうか。鳩ではない。嘴が鋭すぎる。


 何を考えているのだ。鳥の種類など今はどうでもいい。


 領民に被害が出る。


 ジル殿の分析結果が頭の中で回り続けている。温室効果、魔獣防壁、疫病防護。全部消える。明日には消える。遅くとも明後日の明け方には。


◇◇◇


 朝になった。三日目の朝。


 ジル殿は客間に泊まっていた。ヴァルターは何も言わなかった。王宮からの来客に文句をつける度胸はないらしい。政治家は状況が読めないうちは動かない。その判断力だけは確かだ。


 朝食の後、ジル殿と結界部屋で再び会った。


「昨夜、考えた」


 ジル殿はそう切り出した。声はいつも通り硬質だったが、寝ていないのが顔に出ていた。目の下にうっすらと影がある。


「段階的に結界を解く方法を検討した。だが——」


「不可能でしょう?」


「……ああ。古代術式の構造上、部分消失はできない。やるなら新しい結界を上書きしてから古い結界を消す——だが、それには最低でも三ヶ月と、五人以上の術師チームが必要だ」


 三ヶ月。五人の術師。どちらもない。


「つまり、方法はない」


「結界を維持したまま離脱する方法は——ない」


 わかっていた。聞くまでもなく。けれど誰かの口から「ない」と聞きたかったのかもしれない。自分だけの判断で決めるには、重すぎたから。


「ジル殿」


「……何だ」


「十二年間、私が一人で背負ってきたものを、今さら『段階的に』と言われても——困ります」


 声が少し荒くなった。自分でもわかった。


 十二年間、助けを求めなかった。求める相手がいなかったから。夫に言っても理解されない。王宮に訴えても、匿名の論文すら冷たくあしらわれた。一人でやるしかなかった。一人でやってきた。


 それを今になって、結界の影響が広いから、もう少し考えろと?


「ああ」


 ジル殿は頷いた。反論しなかった。


「あなたの判断は正しい。だが——」


 言いかけて、止まった。


「だが?」


「……いや。すまない。『だが』の先は、私が言うべきことではない」


 この人はいつもそうだ。言いたいことの手前で止まる。「だが」を飲み込む。何が言いたいのか、推測はできるが、本人が言わないなら聞かない。


 窓から光が差し込んでいた。地下室に窓はないが、天井近くに小さな換気口があり、そこから朝の光が細く入る。私はこの光で季節を知った。十二年間。夏は白く、冬は青白く、秋はこんなふうに、少しだけ橙がかっている。


 ジル殿が換気口を見上げた。


「この部屋で、十二年間書いていたのか」


「ええ」


「一人で」


「一人で」


 それ以上、何も言わなかった。言わなくても、この人にはわかるのだろう。同じことをしてきた人間には。一人で、暗い部屋で、血を流して術式を書く夜の長さが。


◇◇◇


 昼過ぎ。エルザが息を切らして結界部屋に来た。


「奥様。領地の温室で働くフリーダばあさまが——『最近、お屋敷の光が弱くなった気がする。花の色が薄い』と」


 花の色が薄い。


 結界の力が弱まっているのだ。更新を止めてから一日半以上が経っている。消失まであと一日足らず。既に衰退が始まっていた。


 フリーダばあさま。領地の温室を四十年以上世話してきた老婦人。結界の温もりに一番近い場所で暮らしてきた人。腰が曲がっても毎朝温室に通い、花に水をやり、苗を育てている。


 あの温室の冬星草は、十二年前に私が植えた。嫁入りの直後、結界の調整がてら温室を訪れた時に、フリーダばあさまが「綺麗な花ですね、奥様」と言ってくれた。この屋敷で、結界の仕事を「綺麗」と言ってくれた最初の人だった。


 結界が消えれば温室の温度は下がる。冬星草は寒さに弱い。枯れるだろう。フリーダばあさまが四十年守ってきた温室の花が枯れる。私のせいで。


 いや。私のせいではない。


 ……わかっている。


「……ありがとう、エルザ。下がっていいわ」


 エルザは何も言わなかった。言わなくていい。この人は、私が何を考えているかわかっている。


 ジル殿が黙って立っていた。私を見ていた。


「——出ていく判断は、変えません」


「ああ」


「変えませんが——」


 自分でも驚くほど、声が揺れた。


「——できることがあるなら、したい。全部は無理でも。何か——」


 ジル殿が口を開いた。閉じた。また開いた。


「……師匠がいた」


 唐突だった。


「十年前に死んだ。結界崩壊の事故で。他領の結界が突然消失して、師匠は領民を守ろうとして——巻き込まれた」


 結界崩壊の事故。十年前。


「師匠は言っていた。『結界を個人に依存させてはならない』と。聞き入れる者はいなかった。結界術師は希少だから、どの領も一人の術師に頼るしかない。今のこの領地と、同じだ」


 ジル殿の声が柔らかくなっていた。硬質な声しか聞いたことがなかった。この人にも、こういう声があるのか。


「……だから、あなたの論文を読んだ時——この術式なら、師匠が目指していたことが実現できると思った。それが十年前の話だ」


 また止まった。飲み込んだのだ、その先を。


 蝋燭の炎が揺れた。地下室の壁に、師匠の影はない。十年前に消えた人の影は、どこにもない。


 でも、ジル殿の手袋の下に、その人の教えが刻まれているのだろう。


「ジル殿」


「……何だ」


「明日——結界が消えます。その後のことは、公爵家の責任です。けれど——もし何かできることがあるなら、教えてください」


 ジル殿は頷いた。今度は「だが」を飲み込まなかった。


「考えがある。まだ形になっていないが——明日の朝までに、まとめる」


 夜が更けていた。結界の光が、少しだけ薄くなっているのがわかった。


 冬星草の色に似た光。明日の朝には、この光は消えているだろう。


 ジル殿の「考え」が何なのか、まだわからない。一人で考えなくていいということが、十二年ぶりに、少しだけ楽だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ