第6話 それでも私は出ていく
眠れない夜は慣れている。けれど、理由が違った。
十二年間の眠れない夜は、結界の更新があったからだ。地下室に降りて、血を流して、術式を書く。それが済めば眠れた。身体が疲れて、考える余裕もなかったから。
今夜は違う。地下室に降りる理由がない。術式を書く必要がない。なのに目が冴えている。
天井を見つめた。寝室の天井には細かい彫刻が施されている。ヴァルターの母、先代公爵夫人の趣味だという。林檎の木と鳥の意匠。十二年間毎晩見てきた天井なのに、彫刻の鳥が何の鳥か考えたことがなかった。
鷹だろうか。鳩ではない。嘴が鋭すぎる。
何を考えているのだ。鳥の種類など今はどうでもいい。
領民に被害が出る。
ジル殿の分析結果が頭の中で回り続けている。温室効果、魔獣防壁、疫病防護。全部消える。明日には消える。遅くとも明後日の明け方には。
◇◇◇
朝になった。三日目の朝。
ジル殿は客間に泊まっていた。ヴァルターは何も言わなかった。王宮からの来客に文句をつける度胸はないらしい。政治家は状況が読めないうちは動かない。その判断力だけは確かだ。
朝食の後、ジル殿と結界部屋で再び会った。
「昨夜、考えた」
ジル殿はそう切り出した。声はいつも通り硬質だったが、寝ていないのが顔に出ていた。目の下にうっすらと影がある。
「段階的に結界を解く方法を検討した。だが——」
「不可能でしょう?」
「……ああ。古代術式の構造上、部分消失はできない。やるなら新しい結界を上書きしてから古い結界を消す——だが、それには最低でも三ヶ月と、五人以上の術師チームが必要だ」
三ヶ月。五人の術師。どちらもない。
「つまり、方法はない」
「結界を維持したまま離脱する方法は——ない」
わかっていた。聞くまでもなく。けれど誰かの口から「ない」と聞きたかったのかもしれない。自分だけの判断で決めるには、重すぎたから。
「ジル殿」
「……何だ」
「十二年間、私が一人で背負ってきたものを、今さら『段階的に』と言われても——困ります」
声が少し荒くなった。自分でもわかった。
十二年間、助けを求めなかった。求める相手がいなかったから。夫に言っても理解されない。王宮に訴えても、匿名の論文すら冷たくあしらわれた。一人でやるしかなかった。一人でやってきた。
それを今になって、結界の影響が広いから、もう少し考えろと?
「ああ」
ジル殿は頷いた。反論しなかった。
「あなたの判断は正しい。だが——」
言いかけて、止まった。
「だが?」
「……いや。すまない。『だが』の先は、私が言うべきことではない」
この人はいつもそうだ。言いたいことの手前で止まる。「だが」を飲み込む。何が言いたいのか、推測はできるが、本人が言わないなら聞かない。
窓から光が差し込んでいた。地下室に窓はないが、天井近くに小さな換気口があり、そこから朝の光が細く入る。私はこの光で季節を知った。十二年間。夏は白く、冬は青白く、秋はこんなふうに、少しだけ橙がかっている。
ジル殿が換気口を見上げた。
「この部屋で、十二年間書いていたのか」
「ええ」
「一人で」
「一人で」
それ以上、何も言わなかった。言わなくても、この人にはわかるのだろう。同じことをしてきた人間には。一人で、暗い部屋で、血を流して術式を書く夜の長さが。
◇◇◇
昼過ぎ。エルザが息を切らして結界部屋に来た。
「奥様。領地の温室で働くフリーダばあさまが——『最近、お屋敷の光が弱くなった気がする。花の色が薄い』と」
花の色が薄い。
結界の力が弱まっているのだ。更新を止めてから一日半以上が経っている。消失まであと一日足らず。既に衰退が始まっていた。
フリーダばあさま。領地の温室を四十年以上世話してきた老婦人。結界の温もりに一番近い場所で暮らしてきた人。腰が曲がっても毎朝温室に通い、花に水をやり、苗を育てている。
あの温室の冬星草は、十二年前に私が植えた。嫁入りの直後、結界の調整がてら温室を訪れた時に、フリーダばあさまが「綺麗な花ですね、奥様」と言ってくれた。この屋敷で、結界の仕事を「綺麗」と言ってくれた最初の人だった。
結界が消えれば温室の温度は下がる。冬星草は寒さに弱い。枯れるだろう。フリーダばあさまが四十年守ってきた温室の花が枯れる。私のせいで。
いや。私のせいではない。
……わかっている。
「……ありがとう、エルザ。下がっていいわ」
エルザは何も言わなかった。言わなくていい。この人は、私が何を考えているかわかっている。
ジル殿が黙って立っていた。私を見ていた。
「——出ていく判断は、変えません」
「ああ」
「変えませんが——」
自分でも驚くほど、声が揺れた。
「——できることがあるなら、したい。全部は無理でも。何か——」
ジル殿が口を開いた。閉じた。また開いた。
「……師匠がいた」
唐突だった。
「十年前に死んだ。結界崩壊の事故で。他領の結界が突然消失して、師匠は領民を守ろうとして——巻き込まれた」
結界崩壊の事故。十年前。
「師匠は言っていた。『結界を個人に依存させてはならない』と。聞き入れる者はいなかった。結界術師は希少だから、どの領も一人の術師に頼るしかない。今のこの領地と、同じだ」
ジル殿の声が柔らかくなっていた。硬質な声しか聞いたことがなかった。この人にも、こういう声があるのか。
「……だから、あなたの論文を読んだ時——この術式なら、師匠が目指していたことが実現できると思った。それが十年前の話だ」
また止まった。飲み込んだのだ、その先を。
蝋燭の炎が揺れた。地下室の壁に、師匠の影はない。十年前に消えた人の影は、どこにもない。
でも、ジル殿の手袋の下に、その人の教えが刻まれているのだろう。
「ジル殿」
「……何だ」
「明日——結界が消えます。その後のことは、公爵家の責任です。けれど——もし何かできることがあるなら、教えてください」
ジル殿は頷いた。今度は「だが」を飲み込まなかった。
「考えがある。まだ形になっていないが——明日の朝までに、まとめる」
夜が更けていた。結界の光が、少しだけ薄くなっているのがわかった。
冬星草の色に似た光。明日の朝には、この光は消えているだろう。
ジル殿の「考え」が何なのか、まだわからない。一人で考えなくていいということが、十二年ぶりに、少しだけ楽だった。




