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結界が解けるまで三日~公爵夫人、最後の仕事~  作者: 九葉(くずは)


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第7話 結界が消えた日

 ひび割れは、空から始まった。


 翌朝。四日目の明け方。まだ陽が昇りきらない薄明の中で、私は屋敷の屋上にいた。最後の瞬間を見届けるつもりだった。


 結界が消える時、術者にだけ見える光がある。冬星草の色の、淡い光。十二年間、毎夜更新するたびに見てきた光。それが消えるところを見届けなければ終わりにならない気がした。


 東の空が白み始めた頃、それは起きた。


 空に、一本の線が走った。


 硝子に入る亀裂のように。音はなかった。だが空気が変わった。結界の内側にだけあった、あの甘い匂い、冬星草の匂いが、薄くなっていく。


 二本目の亀裂。三本目。


 光が剥がれていく。空から、屋根から、壁から。十二年分の光が、朝日の中に溶けて消えていく。


 綺麗だった。


 と思ってしまった自分が、少し嫌だ。


 十二年前の記憶が一瞬だけよぎった。あの子供の頃、母と庭で冬星草を植えた日のこと。苗を土に埋めて、水をやって、母が「大きくなるのが楽しみね」と笑った。この結界の光は、あの時の母の笑顔に似ていたのかもしれない。


 光が全部消えた。


 空が、ただの空に戻った。秋の、うすい雲がかかった、何の変哲もない空に。


◇◇◇


 崩壊は静かに始まった。


 最初に温室が死んだ。結界の温室効果が消えたことで、温室内の気温が急激に下がった。秋の朝の本来の冷たさが、十二年ぶりに温室に流れ込んだのだ。


 使用人が走り回っている。怒鳴り声が聞こえた——ヴァルターの声だ。


「結界が消えた? 何の結界だ!?」


 あの声は書斎から聞こえている。廊下を挟んだ向こう側。家令が何か説明しているようだが、ヴァルターの声がそれを遮っている。


「マリアンヌ、お前何か知っているか」


「まあ……奥様が何かなさっていたとは聞いておりましたけれど……」


 「何か」。十二年分の血を流して維持した結界が、「何か」。


 マリアンヌの声が続いた。「でも結界って、そんなに大事なものだったのですか? 私、よくわからなくて……」


 よくわからない。そうだろう。この人にはわからない。わかる必要もなかった。公爵夫人の座に座りさえすれば、結界などなくても困らないと思っていたのだろう。困るのはこれからだ。


 まあ、いい。もうどうでもいい。


 次に魔獣侵入の警報が鳴った。結界の外縁が消えたことで、北の森から魔獣が領地内に入り始めたのだ。領境の見張り塔から狼煙が上がっている。十二年ぶりの狼煙。見張り番も手順を忘れているだろう。


 ヴァルターが玄関から飛び出していった。政治家の顔ではなく、混乱した男の顔で。走っていく背中を二階の窓から見下ろした。あの人が走るのを初めて見た。


 それすら、もうどうでもよかった。


◇◇◇


 どうでもよくなかったのは、その後だった。


 領地の門前に出た時だった。


 子供がいた。


 五歳か六歳の女の子。使用人の子供だろう。朝早くに目を覚まして、門の近くで遊んでいたらしい。目に涙を溜めて、両手でスカートの裾を握っていた。


「お屋敷の光が——消えた」


 女の子は私を見上げた。


「夜、お屋敷がぴかぴかしてたの。ずっと。怖い夢を見た時、窓からお屋敷の光を見たら安心できたの。なのに——昨日の夜、光がなくなって——怖かった」


 結界の光。この子には見えていたのか。術者以外には見えないはずだった。だが、幼い子供の目には、見えることがあるのかもしれない。魔力に対する感受性が強い年齢だから。


 女の子の涙が頬を伝った。小さな手がスカートの裾をぎゅっと握りしめている。


 私は——。


 私は、何も言えなかった。


 口を開こうとした。「大丈夫よ」と言おうとした。でも言葉が出なかった。喉の奥が詰まった。


 十二年間。毎晩、血を流して、誰にも知られず——。


 その「誰か」の顔が、こんなに小さい子供だった。私が守っていたのは、屋敷でも領地でもなく、この子のような子供たちの夜だったのか。


 知らなかった。知っていたら——。


 知っていたら、もっと早く辞められなかっただろう。だから知らなくてよかったのだ。知らなくてよかったはずなのに。


 膝の力が抜けかけた。


 頭の中が——変だ。いつもなら整然と並ぶ思考が、ばらばらになっている。


 正しい。正しいはずだ。


 十二年間搾取されてきた。夫の怠慢だ。私が背負う義務はない。領民の安全は公爵の責任だ。


 正しい。


 なのに——この子の涙が。


 あの温室のフリーダばあさまの花が。


 なぜ。なぜ私が。なぜ私がこれを背負わなければ——。


「セレスティーネ殿」


 ジル殿の声がした。


 振り向くと、ジル殿が門の傍に立っていた。いつからいたのかわからない。外套の襟を正して、私をまっすぐ見ていた。


「あなたが背負う必要はない」


 短い言葉だった。


「これは公爵の怠慢の結果だ。結界を個人に依存させ、その個人に敬意も対価も払わなかった公爵家の管理責任の問題だ。あなたの責任ではない」


 正しいことを言っている。私が考えていたことと同じだ。


 だが、自分で考えるのと、誰かに言ってもらうのは、違う。


 ジル殿が一歩近づいた。手袋をした手が、少しだけ持ち上がって——止まった。何かしようとして、やめたのだ。


 代わりに言った。


「王宮に通達を出した。結界術師団の正式調査として、この領地の結界状況を報告した。王宮から調査団が来る。公爵家の怠慢は公的記録に残る」


 公的記録。


「あなたの十二年間は——消えない」


 その言葉で、膝にようやく力が戻った。


 女の子がまだ泣いていた。私はしゃがんで、女の子の目の高さに顔を合わせた。


「大丈夫よ。光はなくなったけれど——別の人たちが、守ってくれるようになるから」


 嘘かもしれない。嘘にしないために、動かなければならない。


 立ち上がった時、秋の風が頬に冷たかった。結界のない風だ。十二年ぶりの、剥き出しの風。


 ジル殿が隣に立っていた。何も言わなかった。ただ立っていた。


 私はこの人の横顔を見た。師匠を結界崩壊で失ったと言っていた。この人も——こういう景色を、十年前に見たのだろうか。結界が消えた後の、剥き出しの世界を。


 聞けなかった。今は聞けない。


 北の空に、もう一つ狼煙が上がった。魔獣侵入の報せ。ヴァルターの怒鳴り声が遠くから聞こえる。


 世界は動いている。結界がなくても、朝は来るし、風は吹くし、子供は泣くし、大人は怒鳴る。


 私がいなくても世界は回る。


 けれど、私の十二年間は確かにここにあった。この子の夜を守っていた。フリーダばあさまの花を温めていた。それは消えない。


 ジル殿が言った通り、消えない。

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