第5話 結界は根を張る
ジル殿の指が術式の一節をなぞった時、私の結界が震えた。
比喩ではない。壁に刻まれた術式の線が、淡い光を放って脈動した。十二年間、こんなことは一度もなかった。
「これは——」
「共鳴だ。同じ系統の術者が触れると、術式が反応する」
ジル殿が淡々と説明した。指先を壁から離すと、光は収まった。まるで生き物が触れられて驚いたように。
二日目の夕方。ジル殿と共同で結界の全体分析を始めていた。
私が内側から術式の構造を説明し、ジル殿が外側からの観測データを照合する。理論家と実技者。読む力と書く力。互いに持っていないものを持っているという感覚は、十二年間味わったことがなかった。
誰かと術式について話すこと自体が初めてだ。エルザは術式を知らないし、ヴァルターは興味がない。論文は匿名で出して、返ってきたのは冷淡な査読コメントだけ。
ジル殿のペンが速くなった。羊皮紙にびっしりと数式を書き込んでいる。時折、私の説明を遮って質問してくる。
「この第四層の接合部、ここに意図的な揺らぎを入れているのか」
「ええ。完全に均一だと結界が硬くなりすぎて、外力に対して脆くなります。揺らぎを——」
「バネの原理だ。面白い」
面白い。この人は私の術式を「面白い」と言う。「美しい」とも言った。夫は「面倒」と言った。
比べる意味はないのに、頭の隅で比べてしまう自分が少し嫌だった。
ジル殿の分析手法は、私とまったく違った。私は術式を「書く」ことに特化している。構造を感覚で理解し、手の動きに変換する。ジル殿は「読む」ことに特化していた。術式を数式に分解し、論理的に構造を把握する。
私が「ここは揺らぎが必要です」と言うと、ジル殿は「なぜ必要か」を数式で証明してみせた。私が直感で行っていた調整に、理論的な裏付けがつく。不思議な快感だった。
ジル殿が時折、黙り込んで考え込むことがあった。ペンを顎の先に当てて、天井を見つめている。何かを言おうとして、やめる。それから「いや、次に進もう」と実務に戻る。
沈黙が怖いのかもしれない。二人きりの沈黙が。
◇◇◇
問題が判明したのは、日が傾き始めた頃だった。
ジル殿が分析結果を羊皮紙にまとめ、私の前に広げた。公爵領の地図の上に、結界の影響範囲が色分けされている。
赤い線が屋敷を囲んでいる。これは知っている。私が意図して張った結界だ。
だが赤い線の外側に、薄い青い線が広がっていた。屋敷を越えて、領地全体に。農地を覆い、街道を伝い、領境近くまで。
「これは……」
「あなたの結界が十二年かけて浸透した副次効果だ。根のように、地中を伝って領地全体に広がっている」
根。そうか。結界は生き物のように成長するのだ。十二年間、毎夜血を注ぎ続ければ、根を張る。私が意図したのは屋敷の防護だけだった。けれど術式は勝手に伸びて、領地全体を包み込んでいた。
「温室効果。この結界があるおかげで、北方のこの領地で温暖な気候が保たれている。農作物の安定生産はこの結界の副産物だ」
知らなかった。
「魔獣防壁。結界の外縁が魔獣の侵入を遮断している。この十二年間、エーデルシュタイン領で魔獣被害がゼロだった理由がこれだ」
知らなかった。
「疫病防護。結界の浄化作用が空気中の病原を抑制している。領民の平均寿命が周辺領地より長い理由も——」
「待ってください」
声がかすれていた。自分の結界が何をしていたのか、十二年間知らなかった。内側にいると見えない。自分の結界は自分では計測できない。医者が自分の病気に気づきにくいのと同じだ。
「つまり——結界を解くと、どうなりますか」
ジル殿が地図から目を上げた。初めて、表情が曇った。
「屋敷だけでなく、領地全体に影響が出る。温室効果が消え、作物が枯れる可能性がある。魔獣防壁がなくなれば、侵入が始まる。疫病防護も——」
「領民に、被害が出る」
「……ああ」
部屋が暗くなった気がした。蝋燭の数は変わっていないのに。
私の計画は「三日で静かに去る」だった。引き継ぎを終え、痕跡を消し、誰にも迷惑をかけずに——。
誰にも迷惑をかけない。
そんなことが、可能だと思っていた。
十二年間、一人で結界を支えてきた。一人で始めて、一人で終えるつもりだった。けれど結界は私の知らないところで根を張り、領地全体を養っていた。私が辞めれば、その恩恵がすべて消える。
夫の責任だ。本来は。結界を「自前で管理している」と嘘をつき、妻一人に押し付けた夫の怠慢だ。
わかっている。わかっているのに——。
あの温室で、フリーダばあさまが花を育てている。街道を商人たちが安全に通っている。子供たちが魔獣を恐れずに遊んでいる。それが全部、明後日には消える。
私のせいで。
いや——私のせいではない。夫のせいだ。
頭ではわかっている。それでも、十二年間「誰かのために」結界を維持してきた人間の身体は、そう簡単に割り切れない。
「段階的に解く方法は——」
「不可能だ。血の触媒による古代結界は、更新を止めればおよそ三日で全消失する。部分的に残す方法はない」
全か、無か。
ジル殿がペンを止めた。羊皮紙を睨んでいる。
「それと——もう一つ、不可解な点がある」
「不可解?」
「この規模の結界であれば、本来は月に一度の更新で維持できる。なぜ毎日更新が必要だったのかが、数値的に合わない」
毎日。当たり前のことだと思っていた。十二年間、毎夜更新するものだと。
「結界のエネルギー収支を計算すると、あなたが注いだ量の約三割が、所在不明だ。どこかに流出している」
三割。十二年間、毎晩流していた血の三割が、結界以外の何かに吸い出されていた?
「原因は?」
「まだわからない。だが、自然現象ではない。何か——人工的なものが、結界に寄生している可能性がある」
寄生。私の結界に。私の血に。
十二年間、私が苦しんでいた「毎日の更新」という負担は、本来なら不要だったのか。誰かが、あるいは何かが、私の血を余分に奪い続けていた?
喉の奥が乾いた。怒りとも困惑ともつかない感覚が、胃の底に溜まっていく。
長い沈黙が落ちた。地下室の石壁が冷たい空気を吐いている。蝋燭の炎がゆらゆらと揺れて、二人の影を壁に映していた。
「——それでも、私は出ていきます」
自分の声が、思ったより低かった。
ジル殿は何も言わなかった。ペンを置いて、私を見た。
ペンを握ったまま、私から目を逸らした。言いたいことがあるのはわかる。
「……あなたの判断だ」
それだけ言って、ジル殿は手袋をはめ直した。左手も右手も。術式痕を隠すように。
部屋を出る時、振り返らなかった。振り返ったら——何かが揺らぐ気がした。
廊下に出ると、秋の風が石の壁を冷やしていた。結界の光がまだ淡く見えた。薄くなっている。もう長くない。
私の母の庭を思い出した。世界で一番小さい庭。あの庭には結界がない。霜が降りれば花は枯れるし、虫も来る。それでも母は毎年花を咲かせている。
この結界の影響範囲は、母の庭より広い。当たり前だ。母の庭は世界で一番小さい庭だから。
母の庭にも、私の結界にも、共通することがある。手入れをやめたら、消えるのだ。
私は階段を上がった。地下室の扉を閉めた。明日の朝、この扉をもう一度開けることになる。最後に。




