表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
結界が解けるまで三日~公爵夫人、最後の仕事~  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

第4話 あなたの術式を十年追いかけてきた

 王宮の紋章は、私にとって「面倒ごと」以外の何物でもなかった。


 そのはずだった。


 ジル・ヴァイスフェルトと名乗った青年を、客間ではなく結界部屋に案内した。本来なら客間に通すのが礼儀だが、引き継ぎの話をするなら結界を見せるのが早い。正直なところ、この人が何者なのか早く知りたかった。


 王宮の結界術師団。その団長が、なぜ連絡もなく公爵家に来る?


 地下室への階段を降りる間、ジル殿は一言も喋らなかった。黒い外套の裾が石段を掃く音だけが響いている。軍人のような足運び。無駄がない。


 蝋燭に火を灯した。地下室が薄い光に浮かび上がる。


 壁一面に、私の術式が刻まれている。十二年分の。銀の線が蝋燭の炎を受けて、微かに光っていた。


 ジル殿が足を止めた。


 しばらく、何も言わなかった。壁の術式を見つめていた。目が動いている。術式の一行一行を、読んでいるのだ。読める人間が、この屋敷の外にいたのか。


「……世界で最も美しい術式だ」


 小さな声だった。独り言のようだった。私に聞かせるつもりはなかったのかもしれない。


 美しい。


 固まった。


 思考が止まった。十二年間、誰にも、夫にもエルザにも、この術式を「美しい」と言われたことがなかった。当たり前だ。夫は術式を見たこともないし、エルザは「お疲れさまでした」と言ってくれるだけで、術式そのものに対する評価をしたことはない。


「あ——」


 何か言おうとして、言葉が出なかった。代わりに、口から飛び出したのはまったく別のことだった。


「触媒の純度が86%でして、本来は90%以上が望ましいのですが、この地域で入手可能な銀木犀の精製度には限界があり、ただし86%でも結界の安定性は——」


 何を言っているのだ、私は。


 褒められたから。ただそれだけのことで、術式の技術的詳細をまくしたてている。耳が熱い。顔も熱いかもしれない。十二年間、褒められることに慣れていない人間の醜態だ。


 ジル殿はまくしたてる私を遮らなかった。黙って聞いていた。私の言葉が途切れるのを待って、それからこう言った。


「触媒の純度を補うために、術式の構造自体を適応させている。見事な判断だ」


 また褒められた。また固まりかけた。


 落ち着け。


「……それで、引き継ぎの件ですが。あなたはなぜここに? 王宮には何も連絡していないはずです」


「十年前から、この領地の結界を監視していた」


 十年。


「正確に言えば、十年前にある学術論文を読んだ。古代術式の再構築に関する論文だ。著者名はなかったが、術式の体系から推測して——この領地の結界術師の手によるものだと特定した」


 あの論文。学会に匿名で投稿したもの。没落伯爵家の嫁が術式の論文を出すのは体面が悪いだろうと、ヴァルターに遠慮して名前を伏せた。結局、誰にも読まれなかったと思っていた。


 学会の反応は冷ややかだった。「古代術式の再構築は理論的に不可能」という通説を覆す内容だったから。査読者のコメントは「独創的ではあるが実証が不十分」。あれ以来、論文は書いていない。書く意味がないと思った。


 読んでいた人がいた。十年間、追いかけていた人が。


「五年前に、術者があなただと確信した。王宮の監査記録とこの領地の結界特性を照合し、学術的に特定した。だが——」


 ジル殿は言葉を切った。顎が少し引かれて、視線が床に落ちた。


「人妻であるあなたに接触することは、控えていた」


 それで十年間、遠くから見ていた、と。


 この人は十年間、私の術式を——私の十二年間の夜を——知っていたのだ。夫よりもずっと前から。この屋敷の中の誰よりも正確に、私の仕事の価値を理解していた人間が、王宮にいた。


 奇妙な感覚だった。怒りでも喜びでもない。十二年間、暗い部屋で一人きりだと思っていたのに、壁の向こうに明かりが灯っていたことを知ったような、そんな感覚。


 沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れた。


 ジル殿が手袋に手をかけた。右手の手袋を外す。ゆっくりと。


 その手を見た瞬間、息を呑んだ。


 術式痕。


 私と同じだ。血で術式を書く者だけに残る、消えない模様。長年の使用で深く刻まれた傷。右手の甲から指先にかけて、銀色の線が走っている。古い傷は白く、新しい傷はまだ赤みを帯びていた。


 十年以上書き続けた手だ。一目でわかる。


 この人も——血で書いていたのか。同じ痛みを知っている。同じ冷たさを知っている。銀のペンが皮膚を裂く感触も、黒曜石のインク壺に血を落とす夜も。


「あなたの術式を、十年追いかけてきた」


 ジル殿の声は、相変わらず硬質だった。けれど——手袋を外したその手は、微かに震えていた。


 いや、震えではない。私の手と同じだ。術式痕が古くなると、蝋燭の灯りの中で銀色に光るのだ。まるで術式が手の中でまだ生きているかのように。


 私は自分の手袋を見下ろした。手袋の下に、同じ痕がある。


 十二年間、この痕を見せた相手は誰もいない。エルザですら、直視したことはない。「見ないでいてくれる」のがエルザの優しさだった。


 けれどこの人は——見せた。


 自分から。


「引き継ぎについて、ご相談させていただきたい。この結界の構造を正確に分析し、適切な移行方法を——」


「……ええ」


 声が小さくなった。自分でもわかった。


「お願いします」


 蝋燭の灯りの中で、二人の術式痕が淡く光っていた。同じ色の、同じ傷。


 この人の手は、私と同じ匂いがするのだろうか。銀と血と、古い羊皮紙の匂い。


 そんなことを考えて、慌てて頭を振った。何を考えているのだ。引き継ぎの話をしに来ただけだ。この人は王宮の役人で、私は三日後に出ていく公爵夫人で、それ以上でもそれ以下でもない。


 ……はずだ。


 ジル殿の手袋を見た。いや、正確には、手袋の仕立てを見た。良い革だ。細かいステッチ。王宮勤めの給金で買ったのだろうか。私の十二年間の報酬はゼロだが、この人はきちんと対価をもらっている。


 当たり前のことが、少し羨ましかった。


 ジル殿は手袋を——右手だけだが——はめ直さなかった。術式痕を晒したまま、壁の術式を再び見つめている。読んでいるのだ。十二年分の術式を、一行ずつ。


 不思議な光景だった。この地下室に私以外の人間がいて、私の術式を読んでいる。十二年間、ただの一度もなかったことだ。


 蝋燭の炎が二人の影を壁に映していた。並んでいるようにも、向き合っているようにも見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ