第4話 あなたの術式を十年追いかけてきた
王宮の紋章は、私にとって「面倒ごと」以外の何物でもなかった。
そのはずだった。
ジル・ヴァイスフェルトと名乗った青年を、客間ではなく結界部屋に案内した。本来なら客間に通すのが礼儀だが、引き継ぎの話をするなら結界を見せるのが早い。正直なところ、この人が何者なのか早く知りたかった。
王宮の結界術師団。その団長が、なぜ連絡もなく公爵家に来る?
地下室への階段を降りる間、ジル殿は一言も喋らなかった。黒い外套の裾が石段を掃く音だけが響いている。軍人のような足運び。無駄がない。
蝋燭に火を灯した。地下室が薄い光に浮かび上がる。
壁一面に、私の術式が刻まれている。十二年分の。銀の線が蝋燭の炎を受けて、微かに光っていた。
ジル殿が足を止めた。
しばらく、何も言わなかった。壁の術式を見つめていた。目が動いている。術式の一行一行を、読んでいるのだ。読める人間が、この屋敷の外にいたのか。
「……世界で最も美しい術式だ」
小さな声だった。独り言のようだった。私に聞かせるつもりはなかったのかもしれない。
美しい。
固まった。
思考が止まった。十二年間、誰にも、夫にもエルザにも、この術式を「美しい」と言われたことがなかった。当たり前だ。夫は術式を見たこともないし、エルザは「お疲れさまでした」と言ってくれるだけで、術式そのものに対する評価をしたことはない。
「あ——」
何か言おうとして、言葉が出なかった。代わりに、口から飛び出したのはまったく別のことだった。
「触媒の純度が86%でして、本来は90%以上が望ましいのですが、この地域で入手可能な銀木犀の精製度には限界があり、ただし86%でも結界の安定性は——」
何を言っているのだ、私は。
褒められたから。ただそれだけのことで、術式の技術的詳細をまくしたてている。耳が熱い。顔も熱いかもしれない。十二年間、褒められることに慣れていない人間の醜態だ。
ジル殿はまくしたてる私を遮らなかった。黙って聞いていた。私の言葉が途切れるのを待って、それからこう言った。
「触媒の純度を補うために、術式の構造自体を適応させている。見事な判断だ」
また褒められた。また固まりかけた。
落ち着け。
「……それで、引き継ぎの件ですが。あなたはなぜここに? 王宮には何も連絡していないはずです」
「十年前から、この領地の結界を監視していた」
十年。
「正確に言えば、十年前にある学術論文を読んだ。古代術式の再構築に関する論文だ。著者名はなかったが、術式の体系から推測して——この領地の結界術師の手によるものだと特定した」
あの論文。学会に匿名で投稿したもの。没落伯爵家の嫁が術式の論文を出すのは体面が悪いだろうと、ヴァルターに遠慮して名前を伏せた。結局、誰にも読まれなかったと思っていた。
学会の反応は冷ややかだった。「古代術式の再構築は理論的に不可能」という通説を覆す内容だったから。査読者のコメントは「独創的ではあるが実証が不十分」。あれ以来、論文は書いていない。書く意味がないと思った。
読んでいた人がいた。十年間、追いかけていた人が。
「五年前に、術者があなただと確信した。王宮の監査記録とこの領地の結界特性を照合し、学術的に特定した。だが——」
ジル殿は言葉を切った。顎が少し引かれて、視線が床に落ちた。
「人妻であるあなたに接触することは、控えていた」
それで十年間、遠くから見ていた、と。
この人は十年間、私の術式を——私の十二年間の夜を——知っていたのだ。夫よりもずっと前から。この屋敷の中の誰よりも正確に、私の仕事の価値を理解していた人間が、王宮にいた。
奇妙な感覚だった。怒りでも喜びでもない。十二年間、暗い部屋で一人きりだと思っていたのに、壁の向こうに明かりが灯っていたことを知ったような、そんな感覚。
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れた。
ジル殿が手袋に手をかけた。右手の手袋を外す。ゆっくりと。
その手を見た瞬間、息を呑んだ。
術式痕。
私と同じだ。血で術式を書く者だけに残る、消えない模様。長年の使用で深く刻まれた傷。右手の甲から指先にかけて、銀色の線が走っている。古い傷は白く、新しい傷はまだ赤みを帯びていた。
十年以上書き続けた手だ。一目でわかる。
この人も——血で書いていたのか。同じ痛みを知っている。同じ冷たさを知っている。銀のペンが皮膚を裂く感触も、黒曜石のインク壺に血を落とす夜も。
「あなたの術式を、十年追いかけてきた」
ジル殿の声は、相変わらず硬質だった。けれど——手袋を外したその手は、微かに震えていた。
いや、震えではない。私の手と同じだ。術式痕が古くなると、蝋燭の灯りの中で銀色に光るのだ。まるで術式が手の中でまだ生きているかのように。
私は自分の手袋を見下ろした。手袋の下に、同じ痕がある。
十二年間、この痕を見せた相手は誰もいない。エルザですら、直視したことはない。「見ないでいてくれる」のがエルザの優しさだった。
けれどこの人は——見せた。
自分から。
「引き継ぎについて、ご相談させていただきたい。この結界の構造を正確に分析し、適切な移行方法を——」
「……ええ」
声が小さくなった。自分でもわかった。
「お願いします」
蝋燭の灯りの中で、二人の術式痕が淡く光っていた。同じ色の、同じ傷。
この人の手は、私と同じ匂いがするのだろうか。銀と血と、古い羊皮紙の匂い。
そんなことを考えて、慌てて頭を振った。何を考えているのだ。引き継ぎの話をしに来ただけだ。この人は王宮の役人で、私は三日後に出ていく公爵夫人で、それ以上でもそれ以下でもない。
……はずだ。
ジル殿の手袋を見た。いや、正確には、手袋の仕立てを見た。良い革だ。細かいステッチ。王宮勤めの給金で買ったのだろうか。私の十二年間の報酬はゼロだが、この人はきちんと対価をもらっている。
当たり前のことが、少し羨ましかった。
ジル殿は手袋を——右手だけだが——はめ直さなかった。術式痕を晒したまま、壁の術式を再び見つめている。読んでいるのだ。十二年分の術式を、一行ずつ。
不思議な光景だった。この地下室に私以外の人間がいて、私の術式を読んでいる。十二年間、ただの一度もなかったことだ。
蝋燭の炎が二人の影を壁に映していた。並んでいるようにも、向き合っているようにも見えた。




