第3話 引き継ぎという名の不可能の証明
七百ページ。私の十二年間を文字に起こすと、それだけの量になった。
もっとも、これを読んで理解できる人間がこの屋敷にいるかどうかは、また別の問題だ。
二日目の午前。引き継ぎ資料を抱えて、夫の書斎を訪ねた。製本したばかりの資料は、両手で抱えてもずっしりと重い。背表紙は丁寧に綴じた。我ながら良い出来だ——内容はともかく。
書斎の扉を叩くと、「入れ」と短い返事があった。
ヴァルターは書類に目を落としていた。ペンを走らせながら、家令に口頭で指示を出している。
「ブレーメン伯には譲歩の姿勢を見せろ。ただし関税の件は死守だ。向こうが折れるまで引くな」
家令が頷いて退室する。それを見送りもせず、ヴァルターは次の書類に手を伸ばした。三つの作業を同時にこなす。この人の処理速度は本物だ。見える仕事に関しては、この国でも指折り。
見えないものには——興味がない。
「引き継ぎ資料をお持ちしました」
机の上に七百ページの束を置いた。ずしり、と音がした。ヴァルターがようやく顔を上げた。
「……なんだ、これは」
「結界の維持手順書です。簡略版ですが」
「簡略版でこの量か?」
ヴァルターが資料の最初の数ページをめくった。術式の基礎理論——とはいっても、専門用語を避けて平易に書き直した版だ。それでも図表を含めて五十ページある。
夫の眉間に皺が寄った。
「こんな面倒なことをしていたのか」
面倒。
十二年間、毎晩血を流して維持してきた結界を、「面倒なこと」。
「ええ。面倒でしたわ」
声は穏やかだったと思う。少なくとも、そうなるように気をつけた。
「まあいい。マリアンヌに引き継がせる。あの子は呑み込みが早い」
「……あの子は、結界術の基礎をお持ちですか?」
「基礎?」
「術式理論。触媒学。魔力制御の実技。古代語の読解。血液触媒の扱い。最低でもこの五つがなければ、この資料は読めません」
ヴァルターの指がページを繰る手を止めた。
「結界の維持というのは、つまり、そういうものなのか」
「ええ」
この人は本気で知らなかったのだ。十二年間、一度も。結界がどうやって維持されているか、誰が維持しているか、それがどれほどの専門性を要求する仕事か。「自前で管理している」と王宮に報告しておきながら、「自前」の中身を一度も確認しなかった。
当たり前に存在するものの価値は、壊れるまでわからない。
水道が止まって初めて水の有り難みを知るように。蝋燭が消えて初めて光の有り難みを知るように。この人は結界が消えるまで、結界の意味を知ることはないのだろう。
「この結界、私以外に維持できる方は?」
静かに聞いた。答えは知っている。
ヴァルターは何も言わなかった。言えなかった。結界が何でできているかすら知らないのに、「誰にできるか」を答えられるはずがない。
「……王宮の術師に依頼すればいいだろう」
「可能ですわ。ただし、私の術式は古代体系の独自再構築ですので、現代の術師団では互換性がございません。一から新しい結界を構築し直す必要があります。費用は——」
「費用はどのくらいだ」
「白金貨で百枚ほどかと。最低でも」
ヴァルターの表情が変わった。白金貨百枚。騎士の年俸百人分。公爵家の年間収入の相当な割合。
これまで私が無料でやっていた仕事の値段だ。
「……三日では短すぎる。もう少し猶予を——」
「いいえ。三日で十分です。結界が消えた後のことは、公爵家の問題ですわ」
ヴァルターが何か言いかけて、やめた。政治家の顔になっている。損得を計算しているのだろう。今さら離縁を撤回するのは体面が許さない。マリアンヌに約束した手前もある。かといって、結界の問題は放置できない。
けれど——結局は、マリアンヌを選ぶのだろう。
それでいい。
私は書斎を辞した。扉を閉める瞬間、ヴァルターが七百ページの背表紙に手を置いたのが見えた。重さを確かめるように。
あの資料を、この人が読むことはないだろう。マリアンヌに渡されて、マリアンヌが「まあ、難しくてわかりませんわ」と可愛く困った顔をして、そのまま棚の奥に押し込まれる。
棚の奥。私の十二年間の行き先としては、まあ、似合っているかもしれない。
廊下を歩きながら、手袋の中で指を握った。術式痕がじんわりと熱い。ひどく疲れている時にこうなる。血を使いすぎた日の翌日に似た、鈍い熱。
けれど今夜は地下室に降りなくていい。術式を書かなくていい。銀のペンを握らなくていい。
その「しなくていい」の感覚が、まだ身体に馴染んでいなかった。十二年間の習慣は、一日では抜けない。
◇◇◇
書斎を出て、玄関に向かった。午後の空気を吸いたかった。
結界の内側の空気は、いつも少しだけ甘い。冬星草の微かな匂いが混じっている。この匂いも明後日には消える。
正面玄関の扉を開けた。
門の前に、馬車が止まっていた。
見覚えのない馬車だ。黒い車体に——王宮の紋章。金の獅子と銀の杖が交差した、結界術師団の紋章。
誰だ。
王宮からの使者か。ヴァルターの虚偽報告が発覚したのか。それとも——。
馬車の扉が開いた。
降りてきたのは、一人の青年だった。三十代前半。黒い外套に身を包み、髪は短く刈り込まれている。堅い表情。職業軍人のような雰囲気。
そして——手袋。手首まで覆う、革の手袋をはめていた。
私と、同じ。
「エーデルシュタイン公爵夫人、セレスティーネ様でしょうか」
声は硬質で、簡潔だった。
「王宮結界術師団長、ジル・ヴァイスフェルトと申します。結界の件で——引き継ぎの協力に参りました」
引き継ぎの協力。
私は昨日、王宮に何の連絡もしていない。ヴァルターもまだ動いてはいないはずだ。
では——この人は、なぜここにいる?
ジル・ヴァイスフェルトは私の手袋に視線を落とした。ほんの一瞬だけ。それから顔を上げて、もう一度名乗った。
「改めまして。結界の引き継ぎについてご相談したく参りました。——昨夜、この領地の結界出力が急落したのを、王宮の観測機器が感知しました。お時間をいただけますか」
昨夜。私が最後の更新を終えた夜。更新をやめた瞬間を、王宮側で検知していたのか。
秋の風が門を抜けた。結界の甘い匂いが、この人の外套を掠めていった。
私の視線もまた、彼の手袋に落ちていた。手首まで覆う革手袋。私と同じだ。手袋の下に、何がある?
「……どうぞ。ご案内します」
声は平静だったと思う。けれど、胸の奥で何かが小さく引っかかった。
結界の甘い匂いの向こうに、この人が知っている何かがある。
それが何かは、まだわからなかった。




