第98話:「もち、空からご主人を見守る(つもり)」
静かだった。
ぽつりぽつりと雨が降るような、そんな穏やかな時間が流れていた。
――吾輩は、もうこの世界にはおらん。
そう言うと、ご主人がきっと泣いてしまうから、正式には言わにゃい。けれど、身体の痛みはもうないし、重たいまぶたを無理やり開ける必要もない。
そういう意味では、ずいぶんと楽に、ふわふわとした気持ちで、吾輩はこの“ちょっと上の方”から、ご主人を見守っておるのである。
窓辺で、静かにアルバムをめくるご主人の後ろ姿。
その背中は、小さかったころに吾輩のために駆け回ってくれた、あの頼もしい人のものと同じだ。
だけど、どこか丸くなった。柔らかくなった。
――たぶん、それは歳月のせいだけじゃにゃい。
「……もち、今日ね、久しぶりに動画を投稿したの。あんたがいない部屋は、なんだか空っぽみたいだけど……だけどね、不思議と寂しさより、ありがとうって言いたい気持ちの方が大きいんだよ」
ご主人が、小さく笑う。
目元をぬぐいながら、それでも少しだけ唇を引き結んで、前を見ている。
吾輩は、その姿を見て、ほんの少しホッとする。
ご主人は、ちゃんと前に進んでいる。
「この前、保護猫カフェで、里親募集の子を抱っこさせてもらったんだ」
吾輩の耳が、ぴくりと動く(気がした)。
「その子ね……茶トラだったの。ちょっとだけ、もちに似てた」
……おお、それは有望じゃにゃいか。
「でも、まだ家には連れて帰らなかった。ううん、違うな。きっと、もちが背中を押してくれるその時が来たら、って思ってるのかも」
吾輩のふわふわな霊体(?)は、ご主人の背後からそっと肩に手を置く。
にゃんとも温かい、吾輩の“残り香”が、ふっと部屋に満ちた気がした。
「……もち、見てる?」
にゃあ、と答えたつもりだけれど、聞こえたかどうかはわからん。
でも、心はちゃんと通じていると、吾輩は信じている。
みのりは、ふと立ち上がり、押し入れから一冊のノートを取り出す。
それは、もちと暮らし始めた最初の頃から、ずっと書きためていた“もち観察日記”だ。
最初はおっかなびっくりだった文字たちが、日を追うごとにやさしく、やわらかく、そして確かな想いで綴られていく。
「ちゅ~るの日は、目が光る」
「ベランダで風を感じて“哲学”していた(ように見える)」
「ご主人のベッドを占領し始める(偉そう)」
ページをめくるたびに、思い出がくすぐったいくらい押し寄せてくる。
そして、最後のページに、こう書かれていた。
――“もちと生きた日々が、わたしの人生を変えました”
それは、みのりにとって、ただの飼い猫ではなかった。
動画投稿で人生が変わったとか、インフルエンサーになったとか、そういうことではなく。
もちという一匹の猫が、心を癒し、支え、導いてくれた。
みのりはペンを取り、そっとページの余白に書き加える。
「これからも、わたしのそばにいてね。見守ってて、もち」
――吾輩は、もちろんである。
たとえ姿は見えずとも、ご主人のそばにいる。
猫としての一生を全うした今、空の上からでも、家の隅からでも、ご主人を見守ることはできるのだ。
そして、願わくば――
次に誰かがこの家にやってきた時、その子にも言ってやろう。
「ここは、安心して生きていい場所にゃ」と。
吾輩のご主人は、世界でいちばん優しいんだぞ、と。
カーテン越しに、春の風が部屋を撫でていく。
みのりは、ぽかんと口を開けて空を見上げ、そして、そっと目を細めた。
雲の合間に、まあるい猫の影が見えたような、気がした。
――それはきっと気のせい、だけれど。
それでもご主人様の心は、あたたかさで満ちていた。
もちが、そこにいるような気がして。
そして――
もちもまた、こう思っていた。
「吾輩の恩返し、ちゃんとできたかにゃ?」




