第99話:「みのり、ふたたび“命”と向き合う」
初夏の始まり。
窓を開けると、ほんのりと若葉の香りが風に混じっていた。
季節は移り変わっても、私の中にある時間だけは、ほんの少しだけ、足を止めたままでいる。
もちがいなくなってから、もう三ヶ月になる。
最期の夜のことは、今でも昨日のことのように思い出せる。あの柔らかな毛並みも、最後まで凛としていた小さな背中も、全部。
私は、もちのいない朝に、ようやく慣れてきた。
でも、慣れることと忘れることは、違うんだと知ったのも、もちが教えてくれたことのひとつ。
部屋の片隅には、いまもお気に入りだった丸いベッドが置いてある。
そこに、小さな花瓶を置いた。
白くてふわふわした、小さな花。あの日、もちを送り出す時に胸に飾ってあげたものと同じ種類。
「そろそろ……向き合ってみようかな」
そう思えたのは、週末の午後、ポストに入っていた一枚のチラシを見た時だった。
「保護猫の譲渡会を開催します」――そんな言葉が目に入った瞬間、胸の奥がひとつ、軽くなるような気がした。
また猫を飼いたい、とは違う。
命と向き合うということ。
誰かを迎え入れるということ。
その重さと責任を、もちを通して、私はたしかに知った。
次の日曜、私は譲渡会の会場に足を運んだ。
たくさんのボランティアさんと、ケージの中で小さく震える猫たち。
緊張してる子もいれば、興味津々に覗いてくる子もいる。
私は「かわいい」じゃなくて、「この子と生きていけるか」を基準に、ひとつひとつ目を合わせていった。
そして、ふと立ち止まったケージの中に、その子はいた。
白とグレーの毛色。
右耳が少し欠けていて、奥の方でじっと身を縮めていた。
「こんにちは」
私はそっと声をかけた。
一瞬だけ顔を上げたその子の目は、不思議なことに、もちの目に少しだけ似ていた。
警戒しながらも、どこかで信じようとするような――そんな目。
「この子、人慣れはまだ時間かかると思いますけど、すごく優しい性格なんです。ごはんも好きで、よく食べてくれて」
隣にいたボランティアの女性が、穏やかに教えてくれた。
私はその子の前にしゃがみこんで、もう一度目を見た。
鼓動が、ゆっくりと整っていくのを感じた。
「この子と……暮らしたいです」
その言葉は、どこかでずっと温めていた想いが、ようやく形になった瞬間だった。
帰り道、小さなキャリーケースを両手で持ちながら、私は空を見上げた。
少しだけ湿り気を帯びた春風が、頬を撫でていく。
もちのときみたいに、あの子にも名前を付けなきゃ。
どんなふうに呼ばれるのが、あの子は好きだろう。
「もち……また新しい命に出会ったよ。ちゃんと、あなたから受け取ったものを、この手で抱きしめたよ」
心の中で、そう呟いた。
帰宅して、キャリーを開けると、あの子はそろそろと出てきて、部屋の隅にすっと隠れた。
でも、少しすると、静かにこちらを見ていた。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから」
声をかけながら、私はもちのアルバムを開いた。
1ページ目の写真。
あの冬の日、ガリガリに痩せた子猫を、私が膝に抱いている。
中盤は、旅やちゅ~る、たくさんの思い出であふれていた。
最終ページには、白い紙が一枚だけ残っていた。
私はその空白に、今日の日付を書いた。
「今日、新しい命に出会いました。ありがとう、もち。ずっとずっと、大好きです」
そして、私は約束する。
次の命も、ちゃんと抱きしめて、守って、生きていく。
あなたがしてくれたみたいに、私も“誰かのために”生きることを、選んでいく。
もち。
あなたの命は、私のなかで、これからもずっと生きていくよ。
――本当に、ありがとう。




