第97話:「みのり、命のバトンを受け取る」
あの日、春の風の中で抱いたもちのぬくもりが、まだ胸の奥に残っている。
まるで、心臓の音と同化したように、ふいにふわりと温かくよみがえる。
今日も私は、もちの薬を朝一番に確認し、処方食をふやかして、小皿に盛りつけた。
食べやすいようにほんの少しだけ温めて、匂いを立たせる。それが、もちにとっての「美味しさ」のスイッチになる。
「もち、朝ごはんできたよ」
呼びかけると、ソファの定位置から、のそのそと歩いてくる。
後ろ足が少しもたつく様子を見て、私の胸はやっぱり、ぎゅっと痛む。
それでも、もちの瞳はちゃんと前を向いている。
食べたい、という意志がそこにある。
だから私も、しっかり支える。
毎日、そばにいる。それが私の「仕事」だ。
ごはんを半分食べたあたりで、もちがふっと顔を上げる。
口元にちゅるんとごはん粒がついていて、思わず吹き出しそうになる。
「……ああ、もう、かわいいなあ……」
笑いながら、私はもちの口元をティッシュでぬぐってあげた。
それだけのことで、胸があったかくなる。
一緒に生きるって、きっと、こういうことなんだ。
午後、いつものようにホームページの更新作業をしていたときだった。
ふと、パソコン画面の片隅に、ある広告が表示された。
──「保護猫カフェ支援ボランティア募集」──
その文字が目に入った瞬間、胸の奥でなにかがポンと弾けた。
ずっと、うっすらと考えていたこと。
でも、まだ「行動」にはしていなかったこと。
「……もち」
振り返ると、もちが私のベッドの上で、まるくなって寝ていた。
静かで穏やかな寝息。
まるで“信じてるよ”と言うように、すこしだけ尻尾が動いている。
私は、そっとスマホを手に取り、ボランティアの詳細ページを開いた。
保護猫カフェの運営を支える人たちの声、実際に引き取られた子猫たちの写真、
そして「一人でもできることから始めてください」というメッセージ。
「……うん、やってみようかな」
そう、自然に言葉が出ていた。
もちと出会ってからの十二年。
私の人生は、ほんとうに変わった。
会社勤めで疲弊していた私を支えてくれたのは、他でもないもちだった。
動画投稿を始めて、夢を叶えられたのも、もちがいてくれたから。
今、私にできる「お返し」があるなら、
それは、次の“いのち”にその光を繋ぐことなんじゃないか。
週末、私はその保護猫カフェを訪れた。
控えめな木造の建物に入ると、そこには20匹以上の猫たちがいた。
壁に取り付けられたキャットウォークをのんびり歩く子。
お客さんの膝の上でスヤスヤ眠る子。
少しだけ人間を警戒して隅っこにいる子もいた。
そのどの姿にも、私は胸を打たれた。
「誰かに愛されたかった」「誰かを信じていたかった」
そんな気配が、目の奥に残っていた。
私は自己紹介をして、見習いボランティアとして半日、スタッフのお手伝いをさせてもらった。
お水の交換、ごはんの準備、おもちゃの消毒。
どれも、もちにしてきたことと同じだった。
でも、何かが決定的に違う。
ここにいる猫たちは、まだ「家族」を知らない。
たくさん撫でて、たくさん話しかけて、
最後に、ベンチで少しだけ休憩していたときだった。
小さなキジトラの子猫が、私の足元にぴょこんと飛び乗った。
「……あっ……こんにちは」
思わず話しかけると、その子猫はぐるると喉を鳴らした。
ちょっとだけ、もちに似ていた。
でも、似てるだけじゃない。
“ここから始まるいのち”の音がした。
私はその子の体をそっと抱き上げた。
重さはまだ軽い。でも、確かに生きている。
帰り際、スタッフさんがにこやかに話しかけてくれた。
「みのりさん、もしよければ定期的にお越しくださいね。猫たちも、きっと喜びます」
「はい、また来ます。できることから、少しずつでも」
私は深くうなずいた。
その帰り道。
家に帰るバスのなかで、ふとポケットに手を入れると、小さな写真が出てきた。
もちと一緒に写った、去年の春の写真。
私の肩にちょこんと乗って、カメラを睨むように見つめるその表情。
あれは、もちにしかできない顔だった。
「もち。あなたがくれた命の時間、ちゃんと受け取ったよ」
そう心の中で語りかけると、どこか遠くで「にゃ」と聞こえたような気がした。
春の風が、窓を揺らす。
きっと、もちも空の上で見ていてくれる。
これからも、私は命と向き合っていく。
もちが教えてくれた優しさを、少しずつ誰かへ。
そうして、命のバトンはつながっていく。
ずっと、ずっと――。




