表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
完結 吾輩は捨て子猫である ~動画投稿でご主人を救う恩返しにゃん物語~  作者: カトラス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/101

第96話:「もち、最後の春を迎える」

 春の匂いは、吾輩の鼻先をくすぐる。


 窓辺で日向ぼっこをしていると、風がふわりと吹き抜けて、花の匂いや土の匂いが混じった“季節”の気配が毛並みに染み込んでくるのだ。


「……春、にゃ」


 吾輩はそっと目を閉じた。


 今年も、春が来た。

 そして、きっと、これが吾輩にとって“最後の春”になる。


 それは誰かに言われたわけじゃない。

 動物病院の先生も、ご主人も、そんなことはひと言も言わない。


 だけど、わかるのだ。

 吾輩の体は、少しずつ、少しずつ、軽くなっている。

 眠る時間も、長くなった。

 歩くとき、前足の力が少しだけ頼りない。


 でも、痛くはない。

 苦しくもない。

 ただ、風のように、自然に、静かに時が流れているのだ。


「もち~、今日はお外、ちょっとだけ行ってみようか」


 ご主人が、いつもの優しい声で呼びかけてくる。

 その声を聞くだけで、吾輩の尻尾は、ほんの少しだけ動いてしまう。


 人間というのは、どうしてこんなに、温かいのだろう。


 吾輩は、ご主人の手にそっと体を預けた。

 ふんわりとした毛布に包まれて、抱っこされるこの時間が、昔から好きだった。


 歳をとっても、それは変わらなかった。

 むしろ今のほうが、もっと深く、心に染みるように思える。


「ほら、見て。桜、満開だよ」


 ご主人がベランダの椅子に腰を下ろし、吾輩を胸に抱いたまま、空を見上げる。


 そこには、見事な桜の樹が立っていた。

 吾輩がこの家に来た最初の春、まだ若かったその桜は、今や立派な枝を伸ばし、花を空に向かって咲かせている。


「もちと一緒に見た桜、今年で10回目だね」


 ご主人の声が、少しだけ震えている。


「十二年、あっという間だった。もちと暮らして、いっぱい笑って、泣いて、励まされて……ほんと、ありがとう」


 そう言って、ご主人は吾輩の額に、そっとキスを落とした。


 吾輩は、胸がふわりと温かくなるのを感じながら、細い声で「にゃ」と応えた。


《吾輩の方こそ、ありがとうなのだ》


 言葉は交わせなくとも、想いはちゃんと伝わっている。

 吾輩はそれを、確信している。


 夕方、室内に戻ると、ご主人はストーブをつけて、吾輩専用のふわふわベッドをそっと整えてくれた。


「今日はちょっと、疲れたね。ゆっくり寝よう」


 そう言ってくれる声が、どこか切なくて、でもあたたかくて――吾輩は目を閉じる。


 最近は、ご主人と過ごす時間がとても長くなった。


 仕事の合間に撫でてくれたり、アルバムを一緒にめくったり、子猫のころの動画を見て「かわいすぎる~!」と笑ったり。

 そんな時間が、何よりの宝物だった。


 たまに、ご主人は泣く。

 誰にも見せないように、そっと涙を拭いて、笑顔をつくる。


 でも吾輩は知っている。


 その涙は、悲しみだけじゃない。

「今、一緒に生きている」ことを噛みしめている、感謝の涙なのだ。


 だから、吾輩も泣かない。

 ただただ、最後まで、ご主人のそばにいるのだ。


 夜、リビングの灯りを少し落とした中で、吾輩はベッドにくるまりながら、ご主人の読む絵本の声を聞いていた。


「今日はね“しあわせのタネ”ってお話だよ。すごくいい本なの」


 その物語は、小さな生き物が、誰かにしあわせを届けながら旅をする話だった。

 やがて命が終わるそのとき、小さな種が芽吹き、大きな木となって、多くの人の心に残っていく。


……まるで、吾輩みたいだにゃ。


 そう思ったとき、自然と目元が熱くなった。


 吾輩は、大きなことはできなかったけれど、

 ご主人の人生に、小さな光を灯すことができたのなら――


 それが、吾輩の恩返しだったのだ。


「もち、ありがとう」


 ご主人が小さくつぶやいて、そっと吾輩の背中をなでる。


「春、綺麗だったね。来年も……また、一緒に見ようね」


 吾輩は、その言葉に「にゃ」と応えた。


 来年の春――その約束を、今はまだ胸にしまっておこう。

 たとえ来れなかったとしても、ご主人の心のなかに、吾輩の春はきっと残り続けるから。


 夜風が静かにカーテンを揺らし、花びらが一枚、そっと窓辺に舞い込んだ。


 それを見つめながら、吾輩は思った。


《吾輩の春は、ここにある。ずっと、ここに》


 そして、今夜もご主人の胸で眠りにつく。

 それはとても、とても幸せなことなのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ