第96話:「もち、最後の春を迎える」
春の匂いは、吾輩の鼻先をくすぐる。
窓辺で日向ぼっこをしていると、風がふわりと吹き抜けて、花の匂いや土の匂いが混じった“季節”の気配が毛並みに染み込んでくるのだ。
「……春、にゃ」
吾輩はそっと目を閉じた。
今年も、春が来た。
そして、きっと、これが吾輩にとって“最後の春”になる。
それは誰かに言われたわけじゃない。
動物病院の先生も、ご主人も、そんなことはひと言も言わない。
だけど、わかるのだ。
吾輩の体は、少しずつ、少しずつ、軽くなっている。
眠る時間も、長くなった。
歩くとき、前足の力が少しだけ頼りない。
でも、痛くはない。
苦しくもない。
ただ、風のように、自然に、静かに時が流れているのだ。
「もち~、今日はお外、ちょっとだけ行ってみようか」
ご主人が、いつもの優しい声で呼びかけてくる。
その声を聞くだけで、吾輩の尻尾は、ほんの少しだけ動いてしまう。
人間というのは、どうしてこんなに、温かいのだろう。
吾輩は、ご主人の手にそっと体を預けた。
ふんわりとした毛布に包まれて、抱っこされるこの時間が、昔から好きだった。
歳をとっても、それは変わらなかった。
むしろ今のほうが、もっと深く、心に染みるように思える。
「ほら、見て。桜、満開だよ」
ご主人がベランダの椅子に腰を下ろし、吾輩を胸に抱いたまま、空を見上げる。
そこには、見事な桜の樹が立っていた。
吾輩がこの家に来た最初の春、まだ若かったその桜は、今や立派な枝を伸ばし、花を空に向かって咲かせている。
「もちと一緒に見た桜、今年で10回目だね」
ご主人の声が、少しだけ震えている。
「十二年、あっという間だった。もちと暮らして、いっぱい笑って、泣いて、励まされて……ほんと、ありがとう」
そう言って、ご主人は吾輩の額に、そっとキスを落とした。
吾輩は、胸がふわりと温かくなるのを感じながら、細い声で「にゃ」と応えた。
《吾輩の方こそ、ありがとうなのだ》
言葉は交わせなくとも、想いはちゃんと伝わっている。
吾輩はそれを、確信している。
夕方、室内に戻ると、ご主人はストーブをつけて、吾輩専用のふわふわベッドをそっと整えてくれた。
「今日はちょっと、疲れたね。ゆっくり寝よう」
そう言ってくれる声が、どこか切なくて、でもあたたかくて――吾輩は目を閉じる。
最近は、ご主人と過ごす時間がとても長くなった。
仕事の合間に撫でてくれたり、アルバムを一緒にめくったり、子猫のころの動画を見て「かわいすぎる~!」と笑ったり。
そんな時間が、何よりの宝物だった。
たまに、ご主人は泣く。
誰にも見せないように、そっと涙を拭いて、笑顔をつくる。
でも吾輩は知っている。
その涙は、悲しみだけじゃない。
「今、一緒に生きている」ことを噛みしめている、感謝の涙なのだ。
だから、吾輩も泣かない。
ただただ、最後まで、ご主人のそばにいるのだ。
夜、リビングの灯りを少し落とした中で、吾輩はベッドにくるまりながら、ご主人の読む絵本の声を聞いていた。
「今日はね“しあわせのタネ”ってお話だよ。すごくいい本なの」
その物語は、小さな生き物が、誰かにしあわせを届けながら旅をする話だった。
やがて命が終わるそのとき、小さな種が芽吹き、大きな木となって、多くの人の心に残っていく。
……まるで、吾輩みたいだにゃ。
そう思ったとき、自然と目元が熱くなった。
吾輩は、大きなことはできなかったけれど、
ご主人の人生に、小さな光を灯すことができたのなら――
それが、吾輩の恩返しだったのだ。
「もち、ありがとう」
ご主人が小さくつぶやいて、そっと吾輩の背中をなでる。
「春、綺麗だったね。来年も……また、一緒に見ようね」
吾輩は、その言葉に「にゃ」と応えた。
来年の春――その約束を、今はまだ胸にしまっておこう。
たとえ来れなかったとしても、ご主人の心のなかに、吾輩の春はきっと残り続けるから。
夜風が静かにカーテンを揺らし、花びらが一枚、そっと窓辺に舞い込んだ。
それを見つめながら、吾輩は思った。
《吾輩の春は、ここにある。ずっと、ここに》
そして、今夜もご主人の胸で眠りにつく。
それはとても、とても幸せなことなのだ。




