第88話:「みのり、十年分のアルバムをめくる」
春の陽射しが、レースのカーテン越しに優しく部屋の中へ差し込んでいた。
ぽかぽかとした空気が漂う午後。私は久しぶりに押し入れの奥にしまってあった段ボール箱を引っ張り出してきた。
「たしか……このへんに入れてたよね」
箱の中から、分厚いアルバムが何冊も出てくる。表紙に貼った小さな付箋には、「2025年」「2026年」……と年号が手書きで書かれていた。
十年分。
私ともちが一緒に過ごした、日々の記録。
最初のアルバムは、2018年の春。
あの日、会社からの帰り道、濡れた段ボール箱の中で震えていた小さな子猫を拾ったのが、すべてのはじまりだった。
写真の中のもち――いや“赤ちゃんもち”は、今とはまったく別の生き物のようだった。毛はぼさぼさで目やにもついていて、顔も丸くて幼い。
けれど、その中にしっかりと、あのときの不思議な目の力を感じる。
「……ちっちゃかったなぁ、ほんと」
あの頃の私は、どこかで壊れかけていた。
仕事に疲れ、人間関係に消耗し、夢も希望もなくて……。
そんな私を“あの猫”は、まるで当然のように見つめ返してきた。
――「おぬし、何か困っておるな」
そんなふうに言っていた気がしてならない。
今のもちなら、きっと本当に喋ってそうで笑ってしまう。
ページをめくるごとに、たくさんの「はじめて」が蘇る。
初めてのちゅ~る、初めてのカリカリ拒否、初めての病院、初めてのお風呂(もちろん大暴れ)、そして初めての動画投稿。
あのころは、ただただ無我夢中だった。
「もちを可愛く撮りたい」という一心で、夜中に編集して、スマホの小さな画面を何度も何度も見返して……。
再生数が少しずつ伸びて、コメントがついて、バズった日も覚えてる。
何度も心が折れかけたけど、もちののんきな顔を見るたび、「ま、いっか」と思えた。
次のアルバムには、テレビ出演や企業案件、地方でのコラボイベントの写真。
あちこちのご当地ちゅ~るを頬張るもちのグルメレポ写真もあって、思わず吹き出した。
「ほんと、スター猫だったよね、あんた……」
そのあとには、私が会社を辞めた年のアルバム。
家族会議の写真、姉や母と一緒にお寿司を囲んで話し合った夜のスナップ、退職届のコピーも残してあった。
「自分の選んだ道を、生きていきたい」
そう思えたのは、もちがずっと隣にいてくれたからだった。
ふと横を見ると、窓辺のクッションで丸くなっていたもちが、うっすら目を開けた。
「にゃ……」とひと鳴きして、また目を閉じる。
白い毛にうっすらと混じるグレーの毛並みが、少しずつ増えてきた。
ジャンプも前ほど高く飛べなくなったし、最近は夜もすぐに眠ってしまう。
でも、その寝顔は変わらない。
いつだって、心をふっと軽くしてくれる。
アルバムの最後のページには、去年撮ったツーショット写真が貼ってあった。
私の膝の上で、もちが気持ちよさそうに目を細めている。
――十年かぁ。
ほんとうに、いろんなことがあった。
泣いた夜もあったし、笑いすぎてお腹が痛くなった日もあった。
動画を投稿し続けて、自分の仕事にして、出版社から本を出せるようになって、講演もして――。
「全部、もちがいたからだよね」
声に出して言うと、もちがぴくりと耳を動かした。
わかってるのか、いないのか、たぶんどっちでもいい。
私はそっとアルバムを閉じて、膝の上に乗せた。
「これからも、いろんな日が来るんだろうね。悲しい日も、寂しい日も。でも――」
私は立ち上がり、そっともちの隣に座った。
やわらかい毛並みに、そっと手を伸ばす。
「それでも、今日みたいな“春の午後”を、できるだけ多く一緒に過ごしていこうね」
もちが、小さく「ふにゃ」と返事をする。
それだけで、心がほっとする。
アルバムに写っているたくさんの時間は、もう戻らない。
でも、今ここにある“今日”が、いつかの未来の宝物になるのだと信じてる。
窓から入る風が、ページをぱらりとめくった。
そのページには、手書きでこう書いてあった。
「もちと過ごす毎日は、私の人生の誇りです」
ほんの少し涙がこぼれたけれど、笑顔でそれを拭った。
だって――
今日もまた、私たちの十年目が、静かに積み重なっていくのだから。




