第89話:「みのり、ちいさな“お礼の手紙”を書く」
風がやさしい午後だった。
まるで春がひと呼吸ごとに部屋へ入り込んでくるような、やわらかな空気が流れている。
リビングの窓を少し開けて、私は机に向かっていた。
目の前には、一枚の便箋とペン。
――“お礼の手紙を書こう”
そんな思いつきが浮かんだのは、アルバムを見返した翌日のことだった。
十年分の写真と、記憶と、日々をひとつずつたどるようにめくっていった昨日。
私の中に、言葉にしきれないほどの“感謝”が溢れていた。
けれどその「ありがとう」は、声に出すだけではどうにも足りない気がした。
だから私は、文字にして残そうと思ったのだ。
だけど、いざ便箋を前にすると、手が止まってしまう。
誰に向けて書くのか――それすら、決まっていなかった。
私を支えてくれた人たちはたくさんいる。
母や姉、友達、支えてくれたフォロワーさんたちや、本を読んでくれた読者の方々。関わってくれたすべての人たちに「ありがとう」を伝えたくて仕方がない。
でも、やっぱり――
今日、最初に書きたい相手は決まっていた。
私はゆっくりペンを持ち、便箋の一番上にそっと書いた。
「もちへ」
そのたった三文字を書いただけで、胸の奥がきゅっとあたたかくなる。
私は深呼吸をして、そっと書き始めた。
もちへ
君と出会ってから、もう十年が経ったんだね。
あのとき、会社の帰り道で出会った小さな君が、今ではすっかり家族になってくれているなんて、あの頃の私は想像もできなかったよ。
最初は不安だらけだった。猫を飼った経験は幼い時だったし、生活も仕事もギリギリで、毎日がただ過ぎていくだけだった。
でも、君がちょこんと私の肩に乗ったあの瞬間から、私の毎日は変わったんだ。
君の寝顔に癒されて、いたずらに振り回されて、一緒に笑って泣いて……動画を投稿し始めて、思いがけずたくさんの人が応援してくれて。
会社を辞めるって決めた日も、君のぬくもりが背中を押してくれた。
君はいつも、何も言わずにそばにいてくれたよね。
私は君のことを「家族」だと思ってる。
たとえ言葉は通じなくても、君にはちゃんと伝わっていると信じてるよ。
十年一緒に生きてきて、私が変われたのは、君がいてくれたから。
ありがとう、もち。
君がいたから、私は前を向けた。
君がいたから、私は今の自分を好きになれた。
これからも、ずっと一緒にいようね。
君が歩く速度に、ちゃんと私も寄り添っていくから。
だから、これからもよろしくね。
みのりより
書き終わるころには、自然と涙が頬を伝っていた。
悲しいわけじゃない。
ただ、胸がいっぱいになっただけ。
私はそっと便箋を折りたたんで、小さな封筒にしまった。
宛名のところには、「もち」とだけ、やわらかい文字で書いた。
届け先も、郵便番号も、いらない。
この手紙は、今日、そばにいる君に渡せばいい。
私は封筒を持ったまま、リビングに戻る。
もちが、窓辺で日なたぼっこをしていた。
ぽかぽかとした陽射しの中で、まどろみながら、ふにゃ……と小さく鼻を鳴らしている。
私はその隣に静かに腰を下ろし、そっと封筒を差し出した。
「もち、これね。読めないかもしれないけど……一応、受け取ってくれる?」
もちがゆっくりと目を開ける。
そして、封筒にちょんと鼻をくっつけて、くんくんと匂いを嗅いだ。
それだけで、私は十分だった。
もちがわかってくれたのかどうかは、正直わからない。
けれど、彼の静かな瞳がまっすぐに私を見返してくれている気がして――私はそっと微笑んだ。
ふと、もちが私の膝に前足をぽんとのせた。
それはまるで、「了解にゃ」とでも言っているようで。
「……うん。これからも、よろしくね。ご主人より」
私はもちの頭をやさしく撫でながら、小さく呟いた。
春の風が、ふわりとカーテンを揺らす。
手紙の中に込めた思いが、そっとその風に乗って、ふたりの間を漂った気がした。




