第86話:「みのり、もふもふを未来の手に託す」
春の終わり、風が優しく吹く午後。
私は、もちをキャリーに入れて、近所のこども未来センターへ向かっていた。
今日は特別な日だ。
私にとっても、もちにとっても。
「もち、起きてる? 今日はお客さんじゃなくて、先生として呼ばれてるんだよ」
キャリーの中からは、静かな寝息が聞こえる。
この頃のもちの眠りは、だんだんと深く長くなってきた。
起きている時間が短くても、少しでも日差しの下に連れ出すこと、それが私なりの“健康管理”だ。
センターの一室には、十人ほどの子どもたちと、その保護者たちが集まっていた。
今日は「ペットと暮らす未来」という小さなワークショップの開催日だ。
私が担当するテーマは、「猫と過ごす日々を記録する方法」。
つまり――“もち動画”を作っていたあの頃の、編集や表現の楽しさを、子どもたちに伝えるという内容だった。
といっても、難しいことは話さない。
一緒に遊びながら、写真や動画を撮って、ほんの少しナレーションをつける。
そんな体験ができる、子ども向けの入門編。
「じゃあ、先生からのお手本動画を流すね。モデルはこの子――もちくんです」
モニターに映し出されたのは、もちが若い頃、ちゅ~るを一気食いしていたあの伝説の動画。
今や画質も粗く、時代を感じさせる映像だけど、笑い声があちこちから上がる。
「すごい……目が真剣!」
「ぺろぺろ速い! チーターみたい!」
「もちくん、今もこうなの?」
「ううん、今は……もっとゆっくり。シニアだからね。
でも、ちゃんと今も“もふもふ”してて、“ご主人命”なのは変わらないよ」
私はそう答えながら、キャリーの中をのぞいた。
もちがほんのり目を開けて、こちらを一瞥する。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
もちはふわぁ、と欠伸をひとつ。
それから、ごろんと横向きになり、再び寝始めた。
「……あいかわらずマイペースだなあ」
笑いながら、私はそっと子どもたちに言った。
「ね、今日は特別に、この“もち先生”をモデルに、みんなで動画を撮ってみよう!」
小さな子どもたちは、思い思いの角度からもちを撮影した。
「もちくん、動かない……でも、まばたきした!」
「耳がぴくぴくしてるよ!」
「これ、BGMつけたら面白いかも!」
まるで宝物を見つけたように、目を輝かせてくれる子どもたち。
その姿を見ていると、胸の奥がぽっと温かくなる。
かつて、動画を投稿し始めたあの頃――
“可愛い”や“癒し”を通じて、誰かの心が救われたらと思っていた。
でも今は、もっと違う形で、もちの存在が受け継がれていく。
“このぬくもりを、未来へ託す”というのは、きっとこういうことなんだ。
ワークショップの終盤、自由時間の中でひとりの女の子が話しかけてきた。
「ねぇ、先生。もちくん、何歳なの?」
「もう11歳だよ。人間で言ったら65歳ぐらいかな」
「すごい……おじいちゃん猫なんだね」
「うん。いろんなことを、たくさん乗り越えてきたんだよ」
「もちくん、先生のこと、好き?」
その質問に、私は一瞬言葉を詰まらせた。
「……どうだろうね。たぶん、“信頼してる”っていうのかな」
「そっか。もちくんのこと、私も大好きになったよ」
女の子は小さな手で、キャリー越しにそっともちの背を撫でた。
もちのしっぽが、ふにゃりとゆるく揺れた。
その日の夕方、帰り道の並木道。
桜の花びらが、風に乗ってちらちらと舞い落ちてくる。
「もち、今日もがんばったね」
私はもちを抱き寄せ、キャリーの上からそっと額をあてた。
「今日会った子たちの中に、将来ペットと仕事する子がいるかもしれないよ。
もしかしたら、もちを覚えててくれるかもしれない」
もちの返事はなかった。
けれど、しっぽが一度だけ、私の手の上にぽとんと落ちた。
夜、家に戻り、こたつのそばにもちのブランケットを敷いた。
お湯を沸かしてカップスープを飲みながら、私は今日の動画素材を確認していた。
“もちのまばたき特集”
“もち先生の無表情ビーム”
“もふもふアングルベスト10”
どれもクスッと笑えるような、小さな宝物ばかりだった。
「……ねぇ、もち」
もちが寝息を立てながら、ゆっくりと寝返りをうった。
「君と出会って、私はずっと“未来”を考えるようになったんだよ」
かつては毎日がただ辛くて、今日を生きることで精一杯だった。
でも、君が隣にいてくれたから、私は明日の自分を信じられた。
そして今――
私は、未来の誰かに“もふもふのぬくもり”を手渡す準備が、ようやくできた気がする。
それが、君から託された、いちばん大切なことだから。




