第85話:「もち、ご主人の“初講演”に付き添う(ただし寝てる)」
――十年という月日は、猫にとっても、人間にとっても、決して短くはない。
けれど、静かに流れる時間のなかで、それでも変わらずそこにある“ぬくもり”がある。
「よいしょ……もち、行くよ~、はいバッグに入って~」
玄関でキャリーバッグを開けると、もちがのそりとした動きでやってきた。
黒と白の毛は少しずつグレーがかり、かつては鋭かった耳も、いまはぴくぴくと気まぐれに動くだけ。
動きもゆっくりになり、膝の上にいる時間が格段に増えた。
だが――その存在感だけは、10年前と何も変わらない。
「にゃっ」
「文句言わないの。今日だけ、付き添いだから」
もちがちょこんとキャリーに入り、私はそっとファスナーを閉めた。
今日は、大切な日だ。
向かった先は、市内のこども未来センター。
地域の図書館や多目的スペースが併設された、ガラス張りの明るい建物だ。
本の出版や動画活動が落ち着いたここ数年。
私は“ペットと人の共生”をテーマにした講演やワークショップを、細々と続けていた。
今日の講演は、「ペットと生きる、ということ」を子どもたちに届けるイベント。
かつて「もち本」を読んでいた世代が、親になって子どもと一緒に来てくれるような時代になった。
「みのり先生、おはようございます! 今日はもちくんも一緒なんですね!」
主催の職員さんが笑顔で出迎えてくれる。
「はい、寝てるだけですけどね」
「寝てるだけでも、いるだけでみんな喜びますから!」
職員さんが笑いながら、用意された会場へと案内してくれる。
ステージ横に小さな台を用意してもらい、もちのキャリーをそっと置く。
バッグの窓からのぞくと、もちがすでに目を閉じていた。移動の間もぐっすりだったのだ。
「……さすがだね、君は」
私は笑いながら、そっと指を差し入れて撫でた。
もちのぬくもりが、指先から胸に沁み込むようだった。
講演が始まると、子どもたちが次々と集まってきた。
「この猫が“もち”くんですか!? 動かない!」
「ぬいぐるみかと思った~!」
会場が和やかな空気に包まれる。
私はゆっくりと語り始めた。
「私が、もちと出会ったのは、ちょうど10年前です。
あの頃の私は、心も体もボロボロで……仕事に追われて、自分を大切にする余裕もなくて。
でも、道端で震えていた小さな命を、なんとなく見過ごせなくて――連れて帰ってしまったんです」
プロジェクターに、10年前の動画のキャプチャや、最初の頃の写真が映し出される。
「最初はただ“かわいい”って思ってるだけだったのに、気づいたら、彼に助けられてばかりでした」
みんなが笑い、頷きながら耳を傾けてくれる。
私は画面を切り替え、今のもちの写真を映した。
「いまではこんなに、のんびりで無表情ですが……(笑)」
「……でも、いてくれるだけで、いいんです」
それが、どんなに大きな存在か――
言葉では伝えきれない思いが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
講演が終わると、質問タイムになった。
「みのりさん、もちくんは長生きしてますね! どうやったらそんなに元気でいられるんですか?」
私は少し考えてから答えた。
「この子が生きるのに、私が必要だ”って思い続けてきたこと……かな。
そして逆に“私が生きるのに、この子が必要だ”って、何度も思わせてもらった。
それが、彼を強くして、私も強くしてくれたんだと思います」
「もちくんの好きな食べ物は?」
「いまは柔らかいシニア用のちゅ~る。でもね、昔は焼きササミ1本丸ごととかも食べてましたよ~」
「へぇぇ~!」
子どもたちの声に、もちがちょっとだけぴくっと反応する。
私は思わず吹き出しそうになった。
「寝てても、聞いてるのかもね。もち、人気者だよ」
講演が終わり、控室に戻った私は、もちのキャリーを膝に乗せて、そっとファスナーを開けた。
「おつかれさま、もち。……君が、すべての始まりだったよ」
もちは眠ったまま、ほんのり口を開けていた。
私の指先をふにゃりと舐めて、また眠りに戻る。
私は笑って、小さく息を吐いた。
その夜、自宅に戻ると、もちをお気に入りのブランケットにくるんで、こたつの横に寝かせた。
部屋には、講演でもらった手書きの手紙や、子どもたちが描いた“もちの絵”が飾られている。
「……ねえ、もち。君が教えてくれたこと、ちゃんと伝えられてるかな」
もちは静かに目を細め、尻尾を一度だけ、ぽんと動かした。
それが「伝わってるにゃ」と言ってくれた気がして、私はまた涙が出そうになった。
最後に――もちの小さな心の声を、そっと添えて。
吾輩は、もちである。
十年という歳月が、どれほど長いのかは分からぬが……
今日、ご主人が話していた“あの日の出会い”というやつだけは、覚えておる。
寒い道端。震えていた吾輩を、抱きしめたあの温もり。
それからの日々が、吾輩にとって、いちばんの宝物である。
ご主人は言った。「未来に届けたい」――と。
ふむ、それなら吾輩も協力せねばなるまい。
……寝ながら、ではあるがにゃ。




