第84話:「みのり、もふもふを“未来”に届けたい」
もちが動物病院でプロフェッショナルすぎる対応を見せた日から、数日が経った。
春の陽気に包まれた午後、私はベランダで洗濯物を干しながら、室内のもちをふと見やった。
日なたぼっこ中のもちが、ぽかぽか陽気の中で完全に溶けたように寝転んでいる。
お腹を天井に向けて、口はわずかに開いて、足はぴょんと浮いている。まさに「無防備」という言葉の生き写し。
「……かわいい」
思わず声が漏れた。
もちが私の人生に来て、かれこれ丸5年。
毎日がほんの少しずつ変わりながら、確実に時は進んでいる。
そして私は今、その“変わっていく”ことが、少しだけ怖い。
リビングに戻り、PCの電源を入れる。
ディスプレイに表示されるのは、企画進行中の「もち本」第二弾の原稿ファイルと、新しい動画の編集ソフト。そして、ひとつのメールボックスに届いた未読のメッセージ――
件名:【小学校講演のご依頼について】
最近、こうした依頼がじわじわと増えてきた。
動画や書籍だけでなく“もち”の存在が子どもたちにとって癒しになっているらしい。
先生方の話によると、最近は「SNS疲れ」や「心のケア」の一環として、ペットとの触れ合いや命について考える時間を学校で設けるケースが増えているのだという。
「みのりさんと、もちくんのお話を、子どもたちに届けていただけませんか?」
その言葉を何度も読み返しているうちに、私はそっとPCを閉じた。
私は、何かを伝えられるような立派な人間じゃない。
猫がすごいだけ。私はただ、必死に働いて、毎日を食いつなぐように生きてきただけ。
だけど――
視線を向けると、もちが私の足元にやってきて、あくびをひとつ。
何食わぬ顔で膝の上に飛び乗り、くるりと丸まった。
その温かさが、心にじんわりと沁みた。
夜。
私はペンタブを手に取り、ノートに走り書きを始めた。
以前だったら「どうせ無理」と最初から諦めていたことも、今は少しだけ、ほんの少しだけだけど「やってみようかな」と思えるようになった。
思えば、もちを拾ったあの日、私の人生はゆっくりと、でも確実に変わっていった。
部屋の隅で鳴いていた、小さな命。
ひとつの動画投稿が、私の人生の景色を変えた。
今では企業案件や本の出版、小さな講演依頼にまでつながって、昔の私には想像もできなかった世界に立っている。
だけど、原点はいつだって、もちとの日常だった。
キャットタワーの頂上から得意げに見下ろしてくるもち。
ちゅ~るの袋を開けた瞬間に猛ダッシュするもち。
動画の撮影中に寝落ちして、配信事故になったもち。
洗濯物の中に潜り込んで、私に叱られたもち。
「ねえ、もち。未来って、なんだろうね」
私がそう呟くと、もちがぴくっと耳を動かした。
「この日々が、ずっと続くって信じたいけど……でも、いつか、終わりは来るんだよね」
目を閉じて、私はもちの背中を撫でる。
柔らかい毛並み。少しずつ年齢を感じるようになった背骨のライン。
そして、いつものように“無”の表情。
「それでもさ。私は、あんたと過ごした日々を、誰かに伝えていきたいんだ。写真や、動画や、本や、言葉で。未来の誰かが、私たちのことを見て、ちょっとでも優しい気持ちになってくれたら、それってすごく幸せなことじゃない?」
もちが、ごろりと寝返りを打った。
その仕草がまるで「勝手にすればいいにゃ」と言っているようで、私は苦笑する。
「……うん。勝手にするよ。私は、もちを未来に届けたい」
深夜。
私はPCの前に座り直し、メールに返信を書いた。
件名:【Re: 小学校講演のご依頼について】
お世話になっております。
もちの飼い主・みのりです。
このたびは温かいご依頼をありがとうございました。
拙い話かもしれませんが、私たちが歩んできた5年間のことを、
そして、命と暮らすということを、私なりの言葉でお伝えできればと思います。
当日はどうぞよろしくお願いいたします。
みのり & もち
メールを送り終えたその瞬間、もちが小さく「にゃあ」と鳴いた。
その声は、まるでエールのように、背中を押してくれた。




