第83話:「もち、動物病院でプロフェッショナル対応!?(ただし無表情)」
「……さて、もち、準備OK?」
キャリーバッグのファスナーを静かに開けると、中からひょこっと顔を出したもちが、すん、と鼻を動かして空気を確かめた。
もちの顔は、いつも通りまるで能面のように感情が読めないが――たぶん、というか絶対に、心の中では『また病院にゃか』とでも思っているに違いない。
「もち、半年ぶりの健診だからね。今日は血液検査もあるけど…きっとすぐ終わるよ」
そう言い聞かせながら、私はバッグをそっと抱えて玄関へ向かう。
春の日差しはやさしく、駅までの道には桜の花びらがひらひらと舞っていた。
もちがキャリーバッグの小窓からじっと外を見ている。
興味津々なのか、ただ風に揺れる花びらを“敵”だと認識しているのかはわからないけれど、その静かな観察モードがちょっと面白くて、私は思わず笑ってしまった。
動物病院に到着すると、受付のスタッフさんが「あっ、もちちゃんですね!」とすぐに声をかけてくれた。
もうここではすっかり有名猫である。
「SNS見てます~。この間の“ちゅ~る食レポ”動画、うちの猫も真似してましたよ」
「ありがとうございます~、あれ、編集にめっちゃ時間かかりました……」
などと話しているうちに、診察室から呼ばれた。
「こんにちは~、もちちゃん、元気にしてたかな?」
獣医の先生がにこやかにキャリーバッグを開ける。
中から姿を現したもちの表情は――
無。
まるで感情というものを捨てた修行僧のようなその顔に、先生も思わず笑ってしまった。
「うん、今日も落ち着いてるねぇ……っていうか、貫禄がすごいなあ」
体重測定も、心音チェックも、触診も、もちにとっては「なんのことにゃ」という顔で淡々とこなしていく。
「爪もきれいに研げてるし、毛並みも良好。さすが、しっかりケアされてますね」
「ほんとですか?最近、毛玉吐く回数がちょっと増えたかなと思ってたんですけど…」
「それは年齢的なものもありますからね。少しずつ、消化力が落ちてくる時期です。おやつの内容やブラッシングの頻度を調整してあげてください」
ふむふむ、と私はスマホのメモ帳にメモをとる。
一方その頃のもち――
診察台の上で、まるで置き物のように微動だにせず。
「この落ち着きっぷりはすごいですよ。まるでプロの猫モデルですねぇ」
先生が感心している間、もちの耳がぴくりと動いた。
本人、満更でもなさそうだ。
いよいよ苦手な血液検査の時間。私は心の中で(頑張れ…もち…)と祈っていたが――
「じゃあ、ちょっとチクっとしますよ~」
先生の声に合わせて、スタッフさんが手際よく前脚を固定する。
「……ん」
もちが、かすかに声を漏らした。
それだけだった。
「うわ、泣かないんだ……すごい、我慢強い」
「もち……アンタ、すごいよ……」
私は思わずバッグからちゅ~るを出して、診察終了後のごほうびにと準備をする。
診察がすべて終わり、待合室に戻ったもちの顔は――
やっぱり無表情。
だけど、どこかちょっとだけ誇らしげで、「我輩、やりきったにゃ」と言っているようにも見える。
キャリーバッグの小窓から顔を出して、病院内をくるりと見渡す姿は、まるで“現場監督”のようでもあった。
帰り道、私はもちに語りかける。
「もち、ほんとにお利口だったよ。先生もびっくりしてた。やっぱりあんた、プロだね。プロ猫」
もちが「にゃあ」と一声だけ、短く鳴いた。
それが「当然にゃ」と言っているようで、私はつい笑ってしまった。
家に戻ってからもちに用意したのは、ちょっとだけ奮発した“ごほうびちゅ~る”。
もちはそれを丁寧にぺろぺろと舐め、満足そうに丸くなって寝てしまった。
その寝顔を見ながら、私はそっとつぶやいた。
「元気でいてくれて、ありがとう。今日も、明日も、その先も。ずっと一緒にいようね」
そして――
もちの尻尾がぴくりと動いた。
それはまるで、照れくさそうな返事のように思えた。




