第82話:「みのり、“十年目”の春を想う」
春の風が、カーテンをふわりと揺らす。
私はリビングの窓を少しだけ開けて、そこから吹き込む空気を深く吸い込んだ。ほんのりと土の匂い。沈丁花の甘い香り。
そしてどこか懐かしい、春の記憶が混ざり合った空気――。
その背後から、柔らかい足音が聞こえた。
くてん、と私の足元に身体をあずけてきたのは、もちろん――もち。
「おはよう、もち」
もちの背中を優しく撫でると、彼はくるんと尻尾を巻いて、小さく「ふにゃ」と鳴いた。
十年前の春――あの日も、こんな風だったな、と私は思い出す。
会社帰り、冷たい風が吹いていた雨の夜。駅前の小さな公園の片隅で、段ボールの中にちょこんと座っていた小さな 猫。ガリガリに痩せて、震えて、目だけがやけに強くて。
「……お互い、よくここまで来たよね」
もちがまどろみの中でこてんと寝転がった。
彼の寝息は静かで、少し深くて、でも穏やかだった。
最近よく寝るようになったのは、歳のせいだとわかっているけれど――それもまた、私たちが積み重ねてきた時間の証だ。
私はキッチンに立ち、もちのごはんと、私のコーヒーを用意する。
もちの朝食は、ささみペーストに腎臓ケアのカリカリを少し混ぜた特製メニュー。
以前のような食いつきはないけれど、それでもゆっくり、嬉しそうに食べてくれる姿を見ると、こちらまであたたかい気持ちになる。
「はい、もちの“モーニングプレート”です」
もちの前にお皿を差し出すと、彼はじっと私の目を見つめた後、静かに一歩、また一歩と前へ出て食べ始めた。
私はそれを見届けながら、自分のマグカップにコーヒーを注ぎ、ダイニングに腰を下ろす。
春になって、仕事も新年度の節目を迎えた。
動画制作の仕事も、すこしずつ軌道に乗ってきた。
「もち本」は初版が完売し、いまでは数回の増刷が決まっていて、細々ながらも講演の依頼までいただくようになった。
本業として選んだこの道。怖くなかったわけじゃない。
むしろ、最初の一歩はずっと震えながらだった。
でも、あのとき――もちがいてくれたから、私は踏み出せた。
ご近所さんから「もちちゃんのお母さん」と呼ばれるようになって、笑って受け流せるようになったのはいつからだろう。
昔の私なら、気恥ずかしくてきっと逃げていた。
今の私は――ちょっと強くなったのかもしれない。
その日の昼下がり、私は久しぶりにアルバムアプリを開いて、もちとの十年間の写真を遡った。
最初にお風呂に入れた日。
初めてちゅ~るを舐めた日。
動画投稿で初めて「バズった」あの夜。
ふたりで旅に出た温泉地。
テレビに出たこと、ファンレターに戸惑った日。
そして、会社を辞める決断をしたあの日――。
全部、全部が、もちと一緒にいた日々。
「もち、十年って、長いようであっという間だったね」
もちが窓辺で日向ぼっこしながら、目を細めて尻尾を小さく振った。
まるで「そうにゃ」と言っているかのように。
私はふと、つぶやいた。
「来年も、再来年も、一緒にこうして春を迎えようね」
約束ではない。ただの祈りでもない。
これは、誓い。
私がもちと過ごす日々を、これからも大切にするという、静かな決意だった。
夕方、私はもちのキャリーバッグを取り出した。
今日は、半年ぶりの健康診断の日。
「行こうか、もち。帰りにちゅ~る、買って帰ろうね」
もちが「にゃ」と一声返事をした。
彼はもう、若くはないけれど――
歩く速度が少しずつゆっくりになったけれど――
その瞳は、5年前と同じように、まっすぐで澄んでいた。
キャリーバッグに入りながら、ちらりと私を見上げたもちに、私はそっと笑いかけた。
「大丈夫。一緒に、ちゃんと春を迎えていこうね」




