第77話:「もち、仕事と遊びの境界線を見つめる」
朝。
カーテンのすき間から陽がさしこみ、ぽかぽかと吾輩の白いお腹をあたためる。
ん~にゃ……これは、もうちょっと寝ていたいにゃ。
だが、隣からカチカチ、トントンという音が聞こえてくる。
ご主人がキーボードを打つ音だ。あれは“しごと”の音である。
最近、ご主人はとても忙しい。前よりもずっと、キリッとした顔でパソコンと向き合っている。
……うむ。これは少し、様子を見に行かねばなるまい。
吾輩はむくりと起き上がると、ふにふに肉球を鳴らして机の下へ忍び寄った。
よくぞこの日も仕事に打ち込んでおるな、ご主人よ。
「ご主人……今日も働いてるにゃ?」
声をかけたつもりだが、ご主人は気づかない。ううむ、これは相当集中しているにゃ。
吾輩はおもむろに膝へ飛び乗った。
「うわっ、もち!? ちょっと今、集中してるから……」
吾輩はピタリと止まった。
ご主人の声は、いつもの優しい感じではなかった。
少し、鋭くて、冷たい風のようだった。
……にゃるほど。これは「いま、かまってにゃい」というやつか。
いつもなら「はいはい、おやつだよ~」と立ち上がってくれるのに。
最近のご主人は、仕事とやらが始まってからというもの、ずっと机にかじりついている。
あのカメラの前で、「今日のもち!」と明るく言う時間も、減ってきた。
そう、撮影は今や“あそび”ではなくなってきたのだ。
■
昔、ご主人はよく笑っていた。
吾輩がダンボール箱に突っ込んだだけで、涙を流して笑ってくれた。ちゅ~るを食べてる姿を見て、「うわ~おいしそう~」とスマホで写真を撮ってくれた。
その写真が、バズりの始まりだった。
だけど今は……撮影の時間が「きっちり30分」。
スケジュール帳に「撮影・編集・投稿」と書かれている。遊んでいたら「はい、次こっち向いて」と言われる。
なんだか、にゃあ……。
「もち、そっちはもう撮ったから。こっち来て。テーマは“リラックス猫の昼下がり”だから」
うにゃ? 吾輩、いまリラックスしていたのだが……。
思わずカメラをじっと見つめる。
そのレンズの向こうには、画面越しの「見ている誰か」がいる。
吾輩は、あの“誰か”のために動いているのか?
それとも、ご主人のため?
それとも……吾輩自身のため?
にゃーん……にゃーん……。
ご主人が、編集作業で音に気を取られている隙に、吾輩は窓辺へと移動した。
ちょうど、日差しがふわっとあたっていて、ふかふかの毛に温かさがしみわたる。
そのまま、身を投げ出すように横になった。ごろん。
これはもう、「おしごと」ではない。ただの「ひなたぼっこ」だ。
吾輩は、カメラに映っていないときの自分を思い出した。
そういえば、吾輩、もともとは“ただの猫”だった。
道ばたのダンボールの中で震えていた吾輩を、ご主人が拾ってくれて、
その瞬間から「何かが始まった」のだ。
それは、遊びだった。笑い合う日々だった。
……だが、それがいまや“おしごと”という名前に変わった。
■
「……もち、ごめん」
ふと、背後から小さな声が聞こえた。
ご主人だった。パソコンを閉じて、そっと吾輩の隣に座っている。
その目には、少しだけ疲れがにじんでいた。
「もちが嫌がってるの、わかってたのに。なのに、動画撮ることばっかり考えてて……」
吾輩は、無言でご主人の手に頭をこすりつけた。
優しく、すり……と。
ご主人の手が、ぴくっと震えた。
「ねえ、もち。わたしさ、“好き”で始めたのに、最近は“やらなきゃ”って思うことばかりで……」
「……もちと、ただ遊ぶ時間がなくなっちゃったね」
吾輩は、その言葉が嬉しかった。
吾輩にとって、「もちとして存在する」ことは、カメラに映ることではない。
ご主人とじゃれ合って、眠って、時に怒られて、すねて、すぐ仲直りすること。
それが、吾輩のすべてだったのだ。
吾輩は、ご主人の膝へぽんと飛び乗った。
まるで、自分の“定位置”を取り戻すように。
「……もち、ありがと」
ご主人が目元をこすりながら、抱きしめてくれた。
そのぬくもりの中で、吾輩は、あらためて心の中で誓った。
“吾輩は、猫である。ご主人の猫である”
“仕事”であっても“あそび”であっても。
どちらであっても、吾輩はご主人と一緒にいたい。それだけなのだ。
■
その夜、撮影は中止になった。
ご主人はスマホを置いて、吾輩とだけ向き合った。
猫じゃらしをふりふり。久しぶりに、ただの“遊び”の時間。
──カシャッ。
ふと、何気なく撮った写真が、あとでSNSにアップされた。
「今日は、もちとおやすみ時間。仕事でも遊びでもない、大事な時間です」
それが予想以上の反響を呼び、
コメント欄は「わかる!」「それが一番大切ですよね」「ほっこりしました」であふれていた。
吾輩は、画面の向こうの“誰か”にも、ほんの少しだけ想いが届いた気がした。
カメラの前でも、後ろでも。
吾輩は変わらない、ただの猫なのだから。
次回:第78話「みのり、新しい“働き方”を探しに行く」に続く!




