第八章 第71話:「みのり、はじめて“仕事”と向き合う日」
春のやわらかな光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。
六畳一間のアパートに朝が訪れると、いつものように、もちが「にゃあ」と小さく鳴いた。
「……おはよう、もち」
私は布団の中でまどろみながら、もちの頭をそっと撫でる。もちの体はほんのりあたたかくて、昨夜も私の足元に丸まって寝ていたのだろう。
今までは、出勤のアラームが鳴ると同時に跳ね起きて、スーツに袖を通して、パンとトーストを頬張りながら家を飛び出していた。
でも、今日は違う。
「仕事が、ない」
退職してからまだ三日目。
言葉にすると少し空恐ろしい。でも、それは嘘のない自由の始まりでもあった。
思い切って辞めた会社。背中を押してくれた家族と、いつもそばにいてくれたもち。そして、自分自身の中にあったほんの小さな情熱──「動画をつくること」が、今は一つの道として目の前にある。
だけど……。
「もち、動画投稿って、こんなに難しかったっけ……?」
パジャマ姿のまま、私はテーブルの前に座って、昨夜撮った素材を眺めていた。もちがソファで変な寝相になっていたシーンも、カメラに向かって「うにゃっ」と語りかけてくるシーンも、間違いなくかわいい。
だけど、いざ編集画面に向かうと、なぜか手が止まる。
プロのクリエイターとして続けていくんだと心に決めた。けれど、数字の世界は残酷だ。
再生回数、コメント、広告収益、案件……視聴者は正直だ。だからこそ「遊び」で済んでいたころより、ずっと怖く感じる。
「好きだけでやってけるほど、甘くないってことだよね……」
ぽつりとつぶやくと、隣にいたもちが、ちょんと私の手の上に前足を置いた。
「にゃっ」
「……ありがと、もち」
そうだ。
怖いのは、真剣だからだ。
失敗したら怖いのは、本気で向き合っているからだ。
だったら、まずはやってみよう。今日は“会社員じゃない私”としての、一日目。
私はパソコンに向かって、動画編集ソフトを開いた。
タイトルをつける。効果音を足す。カットとカットのつなぎを、少しだけ遊び心を加えてみる。
昨日までは「上司の目」がどこかに浮かんでいた。でも、今日は“自分の目”で選んでいる。
■
午後。ようやく一本の動画が完成した。
再生ボタンを押すと、もちが画面の向こうでちゅ~るを舐めながら、目を細める。その姿に、編集した音楽とテロップが重なって──自然と笑ってしまった。
「……うん。悪くないかも」
すぐにアップロードはせずに、もう一度再チェックをする。
私の動画は、もちの愛らしさに頼ってきた。でも、それだけじゃなくて、私の“想い”も乗せられるようになりたい。
「よし……」
私は新しいノートを開いた。
仕事用のノート。
就職した会社の研修でもらったものとは違う、真っ白なノートだ。
その1ページ目に、こう書いた。
『今週の目標:週2本投稿・コメント返信・取材問い合わせ整理』
小さな文字だけれど、それは確かに、私自身の“仕事”のはじまりだった。
■
その夜。アップロードしたばかりの動画に、ぽつぽつとコメントがつき始めた。
《もちくんの表情が最高です!》《音のつけ方がプロっぽくなってる!》《癒やされました~!》
「……えへへ」
私がPCの前でニヤニヤしていると、もちが足元からジャンプして膝に飛び乗った。
「にゃっ」
「……うん、がんばるよ」
もちの丸い背を撫でながら、私はふと思った。
これまで「仕事=我慢するもの」だった。けど、今は──ちょっとだけ、違う。
心が、ほんのり温かい。
明日もまた、もちと一緒に働こう。
動画編集という名の“職場”で、私たちだけの小さな夢を、少しずつ形にしていくのだ。




