第70話:「みのり、ご主人として“もち”に誓う」
退職届を出した日の夜。
会社の玄関を出た瞬間、ふいに風が吹いてスーツの裾が揺れた。
胸の奥に詰まっていた重いものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
職場を出るとき、私はもう何も振り返らなかった。だって――振り返れば、まだ後悔してしまいそうだったから。
それよりも、帰って“あの子”に伝えたかった。
私はもう、覚悟を決めたよって。
これから一緒に生きていこうって。
電車の中で揺られながら、スマホで動画のコメントを見返す。
「もちちゃんに毎日癒されてます」「疲れてる時、助けられました」
ほんの少し前までは、これがただの“趣味”だったなんて、自分でも信じられない。
最寄り駅に着くと、ぽつぽつと小雨が降っていた。
傘を持っていなかったけど、濡れることも気にならなかった。
「ただいま」って言うあの玄関と、ただ「にゃあ」って返してくれる存在が、この胸の奥にあるすべてを温めてくれているから。
「……ただいま」
玄関を開けると、玄関マットの上に、白くて丸い毛玉が待っていた。
「にゃー!」
もちが、小走りで足元に寄ってきた。
しっぽがぴんと立っていて、目がまんまる。何もかもお見通しみたいな顔をして。
「うん……ただいま、もち」
靴も脱がずに、私はもちを抱き上げた。
雨のにおいをまとった私の服に、もちがくんくんと鼻を寄せる。
「実はね……今日、会社辞めてきちゃった」
ぽつりとそう言った。もちろん、もちには意味はわからないはず。でも。
「にゃー?」
もちの瞳が、まっすぐに私を見つめ返した。
まるで“それでいいの?”って聞かれているようだった。
「うん、いいの。これでよかったの。もう、仕事に縛られて泣く夜は終わり。これからは、自分の心に嘘つかないって決めたの。もちと一緒に生きていく。ちゃんと考えて、責任持ってやっていくから」
言いながら、涙がぽろりと落ちた。
大きな決断をしたあと、人は意外と静かに泣けるものなんだと知った。
もちが私の手をぺろりと舐めた。
その小さな舌の感触が、なによりもあたたかかった。
私はもちを抱いたまま、居間へと向かった。
テーブルの上には、昨日まで書きかけだった「やることリスト」があった。
・会社に退職届提出 → 済
・生活費の見直し → 検討中
・動画撮影スケジュール再構築
・もちとの配信テーマ案出し
・確定申告
「ふふっ……これから、ちゃんと“もちのマネージャー”としても頑張らなきゃね」
私はもちをおろし、ペンを取った。そして、リストの一番上に、太く書き加えた。
・もちの一番の“味方”でいること
「もち、私ね、ご主人として、改めて誓うよ」
私はもちの前にしゃがみ込んで、そっと言った。
「これから、毎日をちゃんと大切に生きる。もちと一緒にいる時間を、一瞬だって無駄にしない。動画はもちろん、ちゃんとした収入にして、生活も守る。でも、義務にしない。もちが“楽しい”って思えることだけする。一緒に、幸せになる」
もちが小さく「にゃ」と鳴いた。まるで、その言葉を“承認”してくれたかのように。
「だから……これからも、どうかよろしくね。もち」
私はもちの額に、そっとキスをした。柔らかい毛が、ほんのり温かかった。
その夜、新しいカリカリのパッケージを開けた。
“撮影抜きのごはんタイム”。今日は特別、私の手からもちにあげた。
「おいしい?」
「にゃー!」
くるくると嬉しそうに回るもちに、私は笑った。
そして、寝る前。布団の中で小さく丸くなったもちの背中に手を添えながら、私はもう一度、心の中で呟いた。
――私の人生に、もちが来てくれてよかった。
明日からのことは、まだ何も決まっていない。
でも、少なくとも今日は、私は“ご主人”として、胸を張っていられる。




