第69話:「みのり、初めての“家族会議”へ」
「……お母さん、今日、時間とれる?」
スマホ越しにそう声をかけた時、内心はぐちゃぐちゃだった。
もう、とっくに覚悟は決めたはずなのに、いざ“伝える”となると、足元がふわふわしてしまう。仕事を辞めるっていうのは、やっぱり、人生の一大事なんだ。
母は、あっさり「いいわよ」と言った。
声に怒気はなかったけど、何かを含んでいる気がしたのは、気のせいだったのか、それとも……。
実家は、京都駅から少し離れた場所にある、昔ながらの町屋だった。
小さな玄関戸を開けると、懐かしい木の匂いがした。
私は一瞬、そこで立ち止まって、深呼吸をひとつ。まるで、これから自分が告白でもするような気分。
「ただいま……」
「おかえり。上がり」
母が台所から顔を出す。エプロン姿は相変わらず、しゃんとしている。奥には、姉の茜もいた。あれ? 聞いてない。
「なんで……茜姉も?」
「休みだから寄っただけ。……って言っても、何となく察してるよ。動画のこと、職場にバレたんでしょ?」
いきなり核心を突かれて、思わず笑うしかなかった。
「うん、まあ……そう。そういう話」
母と姉、ふたりの前で座卓を囲む。湯呑みから立ちのぼる湯気が、何かを見透かすように揺れていた。
「動画投稿は……趣味じゃなかったの?」
母が、静かに口を開く。
「最初はそうだった。でも……猫の“もち”との日々を記録してたら、たくさんの人が見てくれるようになって、応援ももらって……今はもう、ただの趣味って感じじゃなくなってて」
「じゃあ、仕事をやめてそっち一本でいきたいって、そういう話?」
「……うん」
言ってから、ぐっと背筋を伸ばす。言葉にすると、いよいよ“後戻りできない感じ”がして、怖かった。でも、ここを越えなきゃ、きっと先には進めない。
母はしばらく黙って、湯呑みに手を添えたまま天井を見ていた。姉は、少しうつむいて、テーブルを撫でていた。
「……会社の人は、何か言ってた?」
「最初は冷やかされて。でも最近は、嫉妬っぽい空気もある。仕事中に“猫のもちちゃん、今度テレビ出るんでしょ?”って、あきらかに嫌味みたいに言われたりして」
「大人の世界も、子どもと変わらないのね」
母が小さく笑った。
「それで、毎日が少しずつしんどくなって。動画を撮ることが、楽しかったのに、いつの間にか“義務”みたいになってて。でも……それでも、もちと一緒に歩きたいって思ったの」
「じゃあ、やめなさい」
母のその言葉は、意外にもあっさりしていた。
「え……いいの?」
「あなたが苦しんでるのに、それでもやりたいって言えることなんて、そうそうあるもんじゃないわよ」
姉の茜も、うなずきながら言った。
「私は最初、心配してたよ。“猫動画で生活とか大丈夫?”って。でも、みのりは真面目に、真剣にやってるって分かったから。お母さんも同じ気持ちだと思う」
「……ありがとう」
気が緩んで、涙が出そうになった。なんとかこらえようと瞬きしたけど、こらえきれなかった。台所の時計の音が、やけに大きく聞こえる。
「でも、せめて半年は貯金で生活して、それでダメなら、また正社員に戻ることも考えなさい。これは“逃げ”じゃなくて“挑戦”なんだから」
母のその言葉に、私は何度も頷いた。
その夜、実家を出たあと、茜が私に付き添って駅まで一緒に歩いてくれた。途中、何も言わずに歩いていたけれど、最後にひとこと、ぽつりと。
「みのりが笑ってくれてて、よかったよ」
私は笑った。自然に、心から。もちにも早く伝えなきゃ。私、明日、会社に退職届を出すって。




